映画『罪人たち(Sinners)』は、一見すると無茶苦茶な組み合わせに思えます。ブルース音楽と吸血鬼ホラー。この二つのジャンルを融合させようと考える監督は、ライアン・クーグラー以外にいないでしょう。
聖なる賛美歌と悪魔のブルース
映画の冒頭に登場する黒人教会のシーンでは、清らかなゴスペル(黒人霊歌)が歌われます。「心の光で世界を輝かせよう」という神聖な賛美歌です。一方、ジョイントで演奏されるブルース音楽は、アフリカのトライバルな要素を色濃く残した、うねるようなリズムと充実的なエネルギーに満ちています。
この対比こそが、映画『罪人たち(Sinners)』の核心なのです。
ブルースは元々、アフリカから奴隷として連れてこられた人々が持ち込んだ音楽文化「ブードゥー(Voodoo)」に根ざしています。精霊を呼び覚まし、魂を解放するための音楽。それがブルースのルーツでした。キリスト教会から見れば、それは邪教であり、悪魔の音楽に他なりません。
十字路で悪魔と契約したブルースマン
伝説的ブルースギタリスト、ロバート・ジョンソンには有名な逸話があります。彼は十字路で悪魔に魂を売り、その代わりに超絶的なギターの腕前を手に入れたと言われているのです。彼の代表曲「クロスロード(Cross Road)」は、まさにその契約を歌った曲です。
「十字路で俺は膝まずいて祈った
悪魔よ、俺にすごいギターの腕をくれ
その代わり、俺の魂を持っていけ」
町山氏によれば、ロバート・ジョンソンが悪魔と契約したとされる十字路は実在し、町山氏自身も訪れたそうです(ただし、悪魔の呼び出し方は分からなかったとのこと)。
映画冒頭で牧師の息子であるサミーが父親から「お前は罪人だ」と糾弾されるのです。ブルースを歌うこと、それ自体が「罪」とされていたのです。
そして映画『罪人たち(Sinners)』では、そんな「悪魔の音楽」を奏でていると、本当に吸血鬼(悪魔的存在)がやってきてしまうという皮肉な展開が待っています。この設定は、ブルース音楽の歴史的背景を知っていると、実に納得できる構造なのです。
吸血鬼が象徴する文化収奪の恐怖
映画『罪人たち(Sinners)』における吸血鬼が登場します。そして本作の吸血鬼は、単なるモンスターではありません。彼らは明確に「白人による黒人文化の収奪」のメタファーとして機能しています。
アイルランド系移民という選択
興味深いのは、吸血鬼たちがアイルランド系白人として描かれている点です。アイルランド移民は、1845年から1849年のジャガイモ飢饉(Great Famine)によってアメリカに大量に流入しました。
アイルランド大飢饉(ジャガイモ飢饉)とは:
1845年から1849年にかけてアイルランドを襲った未曾有の大災害がありました。それはジャガイモ疫病菌(Phytophthora infestans)の蔓延により、アイルランドの主食であったジャガイモが壊滅的な被害を受けたのです。
また当時のアイルランドはイギリスの支配下にあり、人口の大部分が貧しい小作農でした。彼らの食生活はジャガイモに完全に依存していたため、この疫病は壊滅的な結果をもたらしました。飢饉により約100万人が餓死し、さらに100万人以上が移民として国を離れました。結果として、アイルランドの人口は約25%減少したとされています。
その飢饉からアメリカへ渡った移民たちが待っていたのは厳しい現実でした。カトリック教徒であるアイルランド系移民は、プロテスタント主流のアメリカ社会で激しい差別を受けました。「アイルランド人・黒人お断り(No Irish, No Blacks)」という看板が店先に掲げられ、白人でありながら白人として扱われない屈辱的な立場に置かれたのです。
参考資料:
アメリカへ渡ったアイルランド系移民自身も最初は「非差別側」だったのです。しかし、やがて彼らはアメリカ白人社会に溶け込み、差別する側へと回っていきます。映画では、このアイルランド系吸血鬼たちが、アフリカ系アメリカ人の文化を奪おうとする存在として描かれています。
吸血鬼のリーダー、レミックが才能あるブルース歌手サミーに告げる言葉が象徴的です。
「お前の音楽をよこせ。お前の物語をよこせ」
これは文字通り、白人による黒人文化の収奪を表しています。ブルースという音楽は、やがて白人ミュージシャンによって「ロックンロール」として商業的に成功を収めます。レッド・ツェッペリンなど、黒人ブルースマンの曲をそのまま演奏して大成功を収めた白人バンドも数多く存在します。
映画の系譜から生まれた圧巻の音楽シーンと文化収奪の物語
一生忘れられない音楽シーン、過去と未来が交錯する奇跡の瞬間
映画『罪人たち(Sinners)』を観た誰もが口を揃えて語るのが、中盤に訪れる圧巻の音楽シーンでしょう。ジョイントのオープン初日、最高潮の盛り上がりを見せる中、才能あるブルース歌手サミー(マイルズ・ケン)が歌い始めます。すると、不思議なことが起こります。
過去の霊と未来の霊が同時に現れるのです。
古代アフリカのトライバルな戦士たちが踊り出し、同時に未来のDJがターンテーブルでヒップホップを奏でます。過去、現在、未来。すべての時代の黒人音楽が一つの空間に集い、マッシュアップされていくのです。
このシーンは、ワンカット風の長回しで撮影されており、ライブ感と高揚感が最高潮に達します。
またこのシーンは、映像面でも革新的な試みを行っています。IMAX 70mmフィルムカメラとウルトラパナビジョン70カメラを組み合わせて全編を撮影した、映画史上初の作品なのです。
サミーが歌い始めると画角が徐々に広がり、ウルトラパナビジョンの横長画面からIMAXのフルサイズ画面へと移行します。この変化により、時空を超えた音楽の広がりと高揚感が視覚的に表現されているのです。
このシーンが示しているのは、ブルース音楽が単なる娯楽ではなく、アフリカから奴隷として連れてこられた人々の魂の叫びであり、それが現代のヒップホップやR&Bへと連綿と受け継がれているという事実です。
音楽は時空を超えます。死者も生者も、過去も未来も、すべてを一つに繋ぐ力を持っています。
ブルースからロックンロールへ、白人による文化収奪
しかし、この美しい演奏後に、「禍々しいもの」を呼び寄せてしまいます。
ブルース音楽は、アフリカから奴隷として連れてこられた人々が、ミシシッピ川流域の綿花畑で働きながら生み出した音楽です。奴隷制が終わった後も、彼らは小作人として綿花畑で働き続け、その労働の後に歌う歌。それがブルースでした。
一方、前述に述べたアイルランド系移民もまた、ジャガイモ飢饉によってアメリカに渡り、貧しい生活を送っていました。彼らが持ち込んだアイルランド民謡(ケルト音楽)は、やがてフォーク音楽やカントリー音楽へと発展します。そして、貧しかったがゆえに同じ地域で暮らしていた黒人と白人の音楽が融合し、「ロックンロール」が誕生したのです。
吸血鬼たちは、黒人のブルース音楽を求めてジョイントにやってきます。彼らは「セッションしようぜ」と言いますが、その真意は「お前の音楽をよこせ」です。
そして吸血鬼たちは人々の血を吸い仲間を増やします。それは血を吸うこと = 文化を奪うこと だったのです。
双子の兄弟と新星が紡ぐ心と魂の物語
マイケル・B・ジョーダンが演じる対照的な双子
マイケル・B・ジョーダンは、本作で双子の兄弟スモークとスタックを1人2役で演じています。そして、その演じ分けが実に見事なのです。
スモークは、より冷静で計算高く、経営者目線を持つ兄弟です。彼は過去に子供を失ったという罪悪感を抱えており、その痛みから逃れるように生きています。元恋人であるヴードゥー呪術師マニーとは7年間疎遠になっていましたが、今回の帰郷で再会します。
スタックは、よりカリスマ的で人を巻き込む力を持つ兄弟です。彼は過去に白人女性メアリーと恋人関係にありましたが、当時は異人種間の結婚が許されず、メアリーを白人男性と結婚させてしまった罪悪感を抱えています。
二人とも「罪人」なのです。ギャングとして犯罪に手を染めた罪、子供を守れなかった罪、愛する人を守れなかった罪。それぞれが重い十字架を背負っています。
マイケル・B・ジョーダンの演技で特筆すべきは、スモークとスタックを演じる際の微妙なニュアンスの違いです。誇張された演じ分けではなく、本当に双子を見分けるような繊細な差異が表現されています。
声のトーン、目線の使い方、身体の動き。すべてが微妙に異なり、それでいて双子としての共通性も感じさせます。この演技力があるからこそ、観客は二人のキャラクターに感情移入でき、それぞれの葛藤や成長を追体験できるのです。
新星マイルズ・ケイトンが体現する魂の解放
本作の予想外のMVPは、間違いなくマイルズ・ケイトンでしょう。
調べてみて驚いたのですが、映画『罪人たち(Sinners)』は彼の映画デビュー作であり、俳優としてのキャリアもこれが初めてみたいなのです。IMDbを確認しても、本作以外の出演作はトークショー出演のみという状況です。
にもかかわらず、マイルズ・ケンはマイケル・B・ジョーダンやデルロイ・リンドといったベテラン実力派俳優と画面を共有しながら、全く引けを取らない演技を見せています。それどころか、多くの観客が「本作の真の主人公はサミーだ」と感じるほど、彼の存在感は圧倒的です。
サミーは厳格なキリスト教の牧師を父に持ち、ブルース音楽を「悪魔の音楽」として禁じられています。父は彼にギターを捨て、将来は牧師になるよう求めます。しかし、サミーは自分の才能を信じ、音楽を通じて自由を手に入れようとします。
映画のラストでは、サミーが父の制止を振り切り、「ギターは捨てない」と宣言します。そして町を離れ、ブルース歌手として生きる道を選びます。
救済の場、吸血鬼、KKK、フィクションとノンフィクションの恐怖が交錯する
教会とジョイント、二つの救済の形
映画『罪人たち(Sinners)』の終盤では、二つの場所が対比されます。一つは教会、もう一つはダンスホール“ジューク・ジョイント”です。
どちらも「救い」を求めて人々が集まる場所ですが、その意味はまったく異なります。
教会は、神に祈りを捧げ、魂の救済を求める場所です。しかし、サミーにとって教会は自由を奪う場所でもありました。父である牧師は、サミーの音楽の才能を「悪魔の誘惑」として否定し、ギターを捨てるよう強制します。
一方、ジョイントは酒と音楽で溢れる場所です。禁酒法時代に酒を提供することは違法であり、ブルース音楽を奏でることは教会から糾弾される行為です。しかし、だからこそジョイントは「自由の場所」なのです。
差別と抑圧に満ちた日常から解放され、アフリカのルーツに根ざした音楽で魂を解き放つ。ジョイントは、黒人たちが唯一「自分自身」でいられる場所でした。
映画の終盤、教会とジョイントのシーンがクロスカッティング(交互編集)で描かれます。そして、視覚的に酷似したショットでマッチカット(画面の構図を揃えた編集)されることで、二つの場所が対比されます。


教会で牧師が説教する姿と、ジョイントでスモークが最後の戦いに臨む姿。どちらも「救い」を求める行為ですが、その方法はまったく異なります。
このマッチカットの技法は、映画全体を通して多用されています。特に印象的なのは、ジョイント内で歌手パーリーンがパフォーマンスするシーンと、吸血鬼化したメアリーがスタックを襲うシーンが同時進行で描かれる場面です。最初は性的な行為かと思わせておいて、実は襲撃だったという恐怖。この二つのシーンが、ほぼ同じ構図で繋がれることで、観客に強烈な印象を残します。
古典的吸血鬼設定が生み出す籠城スリラー
映画『罪人たち(Sinners)』に登場する吸血鬼は、実に古典的な設定を踏襲しています。
招かれなければ入れないという設定は、他の吸血鬼映画では扱いが難しいため無視されることも多いのですが、本作では真面目に採用されています。
ジョイントの入り口で、吸血鬼たちが「入れてくれ」と懇願するシーンは、サスペンスとユーモアが絶妙に混ざり合っています。この設定のおかげで、後半はジョイント内部に閉じ込められた人々と、外に群がる吸血鬼たちという「籠城スリラー」の様相を呈します。
ニンニクと聖水も吸血鬼の弱点として登場します。特に印象的なのは、ジョイント内に閉じ込められた人々が、お互いに「お前、吸血鬼じゃないだろうな?」と疑心暗鬼になり、全員で生のニンニクを食べ合うシーンです。このシーンは、ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X(The Thing)』における血液検査シーンのオマージュとも取れます。
心臓に杭を打たなければ死なないという設定も古典に忠実です。
そして本作オリジナルの設定として、「吸血鬼たちは記憶と痛みを共有している」という要素があります。一匹の吸血鬼が傷つけられると、他の吸血鬼たちもその痛みを感じます。一匹の吸血鬼が得た記憶は、他の吸血鬼たちにも伝わります。この設定により、吸血鬼は「白人全体」のメタファーとして機能するのです。
ホラーとしての弱さと社会派テーマの強さ
正直に申し上げると、純粋なホラー映画として本作を評価するなら、やや物足りなさを感じる部分もあります。
古典的なジャンプスケア(突然の驚かし)は多用されていますが、『サブスタンス』や『ドールハウス』のような極端なゴア描写はありません。血しぶきや暴力描写は実用的な特殊効果(プラクティカル・エフェクト)を駆使していますが、恐怖を煽るための最小限に抑えられています。
双子の片方スタックが吸血鬼化してしまい、部屋に閉じこもるシーンなど、「何かがおかしい」という違和感から生まれる持続的な恐怖はあります。しかし、ホラー映画ファンが期待する「圧倒的な恐怖体験」という点では、やや控えめな印象を受けました。
しかし、それは本作の弱点というよりも、監督の意図的な選択だと感じます。映画『罪人たち(Sinners)』が本当に描きたかったのは、ホラーそのものではなく、ホラーという形式を借りた社会批評だからです。
フィクションとノンフィクション、二重の襲撃
そして、本作が真に恐ろしいのは、吸血鬼の脅威が去った後に訪れる現実だったのです。KKK(クー・クラックス・クラン)を中心とした白人男性たちが、ジョイントを襲撃するのです。
このシーンの恐ろしさは、吸血鬼という架空の存在(フィクション)による襲撃と、KKKという現実に存在した組織(ノンフィクション)による襲撃が、同等の暴力として描かれている点です。
吸血鬼はフィクションです。しかし、KKKによる襲撃は歴史的事実です。
映画は、この二つを並置することで、「現実の暴力は、吸血鬼の襲撃と同じくらい理不尽で残酷である」というメッセージを発しています。フィクションでしか描かれないような恐怖を、実際に白人が行ってきた。この構造が、白人による暴力の残虐性を際立たせるのです。
Return of the King エンディング問題
映画『罪人たち(Sinners)』には、一つ指摘しておきたい点があります。それは「映画が何度も終わる」ことです。
三度終わる映画
『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還(The Lord of the Rings: The Return of the King)』は、エンディングが何度も訪れることで有名です。「ここで終わりかな?」と思うと、また次の場面が始まり、さらに次の場面が続く。観客は「いつ終わるんだ?」と戸惑います。
映画『罪人たち(Sinners)』も、似たような構造を持っています。映画は約三回終わります。
すべてのエンディングが必要
ただし、『罪人たち(Sinners)』の場合、すべてのエンディングが意味を持っています。
一つ目のエンディングは、吸血鬼との戦いの決着です。
二つ目のエンディングは、KKKとの対決です。
三つ目のエンディングは、サミーの未来です。
それぞれが異なるテーマを描いており、どれも省略できません。映画は長尺ですが、その長さには理由があるのです。
ミッドクレジットシーンは必見
重要なのは、ミッドクレジットシーン(クレジット途中の追加シーン)が本編の一部であるという点です。
通常、ミッドクレジットシーンは「おまけ」や「次回作への布石」程度のものですが、本作では違います。ミッドクレジットシーンこそが、映画の真のエンディングなのです。このシーンを見ずに帰ってしまうと、物語を完結させることができません。
必ず最後まで観てください。
まとめ:ブルースが奏でる魂の叫びと、映画が問いかける未来
映画『罪人たち(Sinners)』は、ライアン・クーグラー監督が、真の意味で自分の作品を作り上げた。その事実だけでも、映画史的に重要な意味を持つのではないでしょうか。
ブルースという音楽ジャンルの魂と歴史を、これほど情熱的に描いた作品は稀でしょう。圧巻の音楽シーンは、観る者の記憶に深く刻まれます。ブルース音楽の迫力、ギターの弦の振動、ボーカルの息遣い、ドラムの響き。これらすべてが、物語の感情を増幅させます。音楽が単なるBGMではなく、物語の主役級の存在として機能しているからこそ、できる限り高品質な音響設備での視聴を強くお勧めします。
それは文化への深い敬意に満ちあふれています。ブルース音楽がどのように生まれ、どのように抑圧され、どのように白人に奪われ、それでもなお生き続けてきたのか。この歴史を知ることは、アメリカという国を理解する上で不可欠です。
一方で、本作には「白人嫌悪」と受け取られかねない描写もあります。吸血鬼が白人であり、KKKが襲撃し、文化を奪う存在として描かれる。これを不快に感じる観客もいるでしょう。しかし、それは歴史的事実を描いているに過ぎません。不快に感じるとすれば、それは歴史そのものが不快だからです。
映画『罪人たち(Sinners)』は、万人に勧められる作品ではありません。癖が強く、予備知識があった方が楽しめる作品です。しかし、だからこそ価値があるのです。こうした作品が、大手スタジオの支援を受けて劇場公開される。それは、映画の未来が明るいことを示しています。多様な声が、多様な形で表現される世界。それこそが、映画が目指すべき未来ではないでしょうか。
映画『罪人たち(Sinners)』は、単なるエンターテインメントではありません。それは、過去と現在と未来を繋ぐ音楽の力を信じる、一つの祈りなのです




