怪物はなぜ、生まれた日から呪われていたのか。誰にも求められず、誰にも愛されず、それでも世界を理解しようと手を伸ばした存在の物語を、ギレルモ・デル・トロはついに自分の言葉で語り始めました。
ときは18世紀中盤。暗い北極の海に、一隻の船が閉じ込められています。氷に囲まれ、身動きのとれないその甲板に、血まみれの男が倒れていた。彼の名はヴィクター・フランケンシュタイン。そして彼を追ってくる影は、人でも獣でもない何かでした。
ゴシック小説の名作「フランケンシュタイン」はメアリー・シェリーが1818年に生み出して以来、数百もの映像作品が挑んできた「フランケンシュタイン」という問い。その最新にして最も誠実な回答が、今あなたの画面の前に広がっています。
200年の時を経てもなお語り継がれるメアリー・シェリーの問い「命を創り出した者は、その命に何を負うのか」に、デル・トロは豪奢なバロック美術と峻烈な人間ドラマを纏わせて、真正面から答えを叩きつけました。怪物を悼み、人間を問い直します。
科学への警鐘と、受け継がれた問い
メアリー・シェリー『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(1818年)
本作の原作は、イギリスの作家メアリー・シェリーが21歳のときに発表したゴシック小説です。バイロン卿やパーシー・シェリーら詩人グループとの「幽霊話コンテスト」から生まれたとされるこの物語は、産業革命が急加速し、蒸気機関が都市を変え、科学技術が「神の御業を人間が奪えるかもしれない」と信じられ始めた18世紀のロンドンで世に送り出されました。
「現代のプロメテウス」という副題が示すように、神の領域に踏み込み生命を作り出した者の傲慢さとその代償を描いたこの物語は、著者名を伏せて出版されています。女性作家によるSF的な物語が受け入れられにくかった時代の制約がそこにありました。
AIが日常に溶け込む2025年においても、原作の問いである「創造者は被造物に何を負うのか」は色褪せるどころかその切実さを増しています。デル・トロが公の場で生成AIへの強い反発を示しながらこの作品を完成させたことは、単なる偶然ではないでしょう。映画ホラーゴシックドラマ『フランケンシュタイン』は、古典を現代に蘇らせた作品であると同時に、創造倫理への真摯な問いかけとして機能しています。

200年愛され続ける物語と、30年越しの宿願
メアリー・シェリーが1818年に生み出して以来、「フランケンシュタイン」という物語は数多く映像化されています。ユニバーサルの古典怪物映画が生み出したボルト首の巨人像から、ケネス・ブラナー版の「フランケンシュタイン(1994)」、さらには喜劇や活劇まで、この物語はあらゆる解釈を受け入れながら生き延びてきました。それほどまでに人類の普遍的な問いに触れている物語は、他にそう多くはないでしょう。
ギレルモ・デル・トロが映画ホラーゴシックドラマ『フランケンシュタイン』という物語に魅了されたのも、そうした長い歴史の一端からでした。7歳のときに出会った1931年版の映画がきっかけだといいます。以来30年以上、あの怪物と科学者の物語を自らの手で映像化することを夢見てきた彼が、Netflixとのタッグによってついに念願を果たしました。
これほど長い年月を費やした企画だからこそ、完成した作品には生半可な情熱では生み出せない密度があります。もともとクリーチャー役にはダグ・ジョーンズ、ベネディクト・カンバーバッチ、アンドリュー・ガーフィールドといった俳優の名前が挙がっていたと伝えられています。結果的にジェイコブ・エロルディが抜擢されましたが、この配役の妥当性は視聴後に深く納得させられるものでした。
デル・トロのフィルモグラフィーの中でこの作品を位置づけると、『パンズ・ラビリンス』(2006年)の寓話性、『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017年)の怪物への愛と孤独、そして『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』(2022年)の「生命と死の意味」というテーマが、すべてここに集約されているように感じられます。ケネス・ブラナー監督の『フランケンシュタイン』(1994年)と比べれば、2時間3分のあちらの作品に対し2時間29分の今作はほぼ30分長いにもかかわらず、体感時間は明らかに短く感じられました。それはひとえに、キャラクターへの感情移入の深さと映像体験の密度の差によるものでしょう。

デル・トロが生み出す怪物の造形美
映画『フランケンシュタイン(2025)』が始まった瞬間に、その映像の重厚さに言葉を失いました。
それはもちろんフランケンシュタインが生み出した怪物(クリーチャー)のビジュアルデザインでした。従来の映像化作品が採用してきた、のっぺりとした緑色の巨大な怪物像とは一線を画します。ジェイコブ・エロルディが演じる怪物は、異なる人物の体の部位を縫い合わせた継ぎ目が走る肌に、対照的な色調のパッチワークが施されており、その異形の美しさは思わず目を奪われるほどでした。グロテスクでありながら奇妙な優雅さを宿している──これこそがデル・トロの真骨頂といえるでしょう。
さらに特筆すべきは、CGIに頼らないアニマトロニクス(機械仕掛けの造形物)の多用です。2025年という時代にこのアプローチを選んだことへの驚きとともに、生身の質感を持つ小道具や動く造形物が画面に与えるリアリティには、TV画面越しでも圧倒的な説得力がありました。広大な駐車場を改造してつくられたという北極の船のセットも、ジンバルで傾けられる実物大の船体も、まるで別の時代に迷い込んだかのような没入感をもたらしてくれます。
ゲームクリエイターの小島秀夫氏が「まるで現代アートのように美しい」と評した怪物のデザインに触れたとき、その言葉の正確さに深く頷く思いがしました。

豪華絢爛、時代を超えたファッションの美学
衣装デザインもまた、映画ホラーゴシックドラマ『フランケンシュタイン』の白眉のひとつです。ケイト・ホールが手がけた衣装は19世紀のゴシック様式を基調としながら、デル・トロの要求に従って意図的に「現代的な配色」が盛り込まれています。
画面全体から漂う様式美は、ルネサンスの均整美よりもずっと濃厚な、バロック絵画の官能性に近いものがあります。ルーベンスやカラヴァッジオが描いた明暗の劇的なコントラスト、光と闇が激突する構図──あの重厚な肉体感と感情の奔騰が、この映画のすべての衣装に宿っているように思いました。
なかでもミア・ゴスが演じるエリザベスの衣装は圧倒的な存在感を放っていました。深みのある赤や、くすんだ金の刺繍、蒼いベルベット──それらの色彩が画面を埋め尽くすとき、視聴者はもはや物語を追うよりも先に、その造形の美しさに心を奪われているのではないかと思いました。彼女が画面に現れるたびに、まるでバロック絵画の聖女が額縁から抜け出してきたかのような錯覚に陥ります。
クリストフ・ヴァルツが演じる武器商人ハーランダーの衣装もまた印象的です。上質な素材で仕立てられた軍装に近い佇まいは、権力と資本の冷たい輝きを放っており、ヴァルツならではの端整な不気味さをさらに際立たせていました。対してチャールズ・ダンスが演じる父レオポルドは、重厚な黒と深緑の組み合わせが権威と抑圧を体現し、まるでレンブラントが描いた貴族の肖像画がそのまま動き出したかのような存在感でした。
そしてこれらすべての豪奢さと対比するように、怪物が纏う質素な衣服の無骨さがある。美しいものに囲まれながら醜く生きる人間と、醜い外見を持ちながら清廉に在ろうとする怪物──その逆転の構図が、衣装という視覚言語によって静かに、しかし雄弁に語られていました。
第二章からの人間性──語り手が変わるとき、物語は深淵へ落ちていく
映画『フランケンシュタイン(2025)』の物語は、北極の船上でヴィクターが自らの過去を語るところから始まります。この枠組みは原作小説に忠実であり、複数の語り手を持つ入れ子構造の妙が、映像版においても鮮やかに機能していました。
第一章は「ヴィクターの物語」として展開します。幼くして最愛の母を失い、暴力的な父との確執の中で育った才気あふれる科学者が、死を克服するという狂気じみた夢に憑かれていく過程。オスカー・アイザックの演技は磁力的です。情熱的で知性的でありながら、自分の欲望の深さに自覚的でない──そういう人間のいちばん手に負えない側面を、アイザックは見事に体現していると思いました。
しかし、この映画の真の凄みは第二章で花開きます。語り手がクリーチャー自身に移り変わる瞬間、物語の空気はがらりと変貌します。「作ってくれと頼んだわけではない。不死身の体を望んだわけでもない」という存在の根源的な孤独が、静かに、しかし峻烈に胸に刺さります。
逃げ延びた怪物が身を潜めたのは、森の狩人小屋の壁裏でした。そこで彼は壁の隙間越しに、言葉を交わす人間たちの営みをじっと観察します。笑い声、怒鳴り声、慰め合う声──外の世界は自分が知らない感情の洪水に満ちていました。そのひそやかな観察の日々が、怪物に「自分が何者か」を問いかける最初の契機となります。

やがて怪物が出会うのが、デイビッド・ブラッドリー演じる盲目の老人です。目が見えないがゆえに怪物の異形を恐れず、ただその声に耳を傾けてくれるこの森の賢者との日々は、映画全体の中でも最も静謐で美しい時間として輝いています。老人は怪物に言葉を教え、詩を語り、人間の喜びと悲しみの意味を伝えました。焚き火の傍で言葉を学ぶ怪物の表情には、かつて創造の瞬間に宿っていた空虚さとは全く異なる、知性と感情の芽吹きが見てとれます。この二人のやりとりは、ゴシックホラーでありながら一種の教育劇として機能しており、観ているうちに胸が温かくなると同時に、やがて訪れる別離の予感に切なさが募りました。
やがて自らの出自を知り、怒りを覚えていく怪物の成長を追うこの章は、ゴシックホラーの枠を大きく超えていると感じました。そしてここで浮かび上がるのが、「悪意なき暴力」という鋭い問いです。怪物は、生まれた瞬間から「殺そう」と思ったわけではありません。感情の制御を知らず、力の加減を知らず、愛されたかったがゆえに人を傷つけてしまう──その構造は、単純な勧善懲悪の物語には収まりません。怪物が無垢であればあるほど、彼を生み出した者の責任は重くなる。その因果の重さを、映画は一切の甘さなく描き出しています。
ジェイコブ・エロルディの演技は驚嘆に値します。純粋無垢な幼子のような目線から、老人との対話の中で芽吹く知性の輝き、そして傷ついた青年の悲哀へ、やがて復讐に燃える殺意へと変移していくその軌跡を、膨大な量のメイクアップ越しに表情で演じきった力量には、ただ息を飲む思いでした。「目の表情といい、体型といい、この役には彼以外考えられない」という印象は、視聴後にますます強くなるばかりです。
「赦し」という結末への問い──唐突か、必然か
そして、最大の論点となるクライマックスについて、率直に申し上げます。
最終盤でヴィクターと怪物がたどり着く「和解」に近い結末には、確かに「唐突」と感じる側面がありました。これほど壮絶な対立と憎悪を積み上げてきた物語が、ある老人の存在によって赦しへと着地する流れは、「気づいたら和解していた」という違和感として残りました。
また、終盤に突然前面に出てくる「父親像」の問題も気になるところです。ヴィクターとレオポルド父子の関係、そしてヴィクターと怪物の擬似的な父子関係という二重構造は映画全体を貫く重要なテーマです。しかしそのテーマが終盤で急速に圧縮されて処理されていく流れには、2時間29分という長尺をかけて積み上げてきた丁寧さと比べたとき、やや尻すぼまりの印象を受けたのも正直なところです。
一方で、デル・トロが意図したのは安直なハッピーエンドではなく、「怒りの先にある感情」を示すことだったと感じています。カトリック的な贖罪と赦しのテーマが映画の底流に静かに流れていたことに気づくとき、その結末は「唐突」ではなく「必然」として読み直せる可能性があります。解釈の余地を残す結末──それをデル・トロの誠実さと受け取るか、物足りなさと感じるかは、視聴者それぞれに委ねられているといえるでしょう。
まとめ:怪物は己の鏡だった。不寛容な時代へのデル・トロの答え
Netflixオリジナル映画『フランケンシュタイン(2025)』は、クライマックスの唐突感、父子テーマの消化不足、そして2時間半という長尺をすべての視聴者が受け入れられるかという課題は確かにあります。
しかしそれでも、この映画が持つ格調と誠実さは特筆に値するのではないでしょうか。メアリー・シェリーが産業革命期のロンドンで世に問うた物語──「神の領域を侵した者は何を背負うのか」「創り出されたものには何が与えられるべきか」を、2025年というAI時代の文脈の中で正面から問い直した作品は、そうそう現れるものではありません。
デル・トロは怪物に言わせます。「怒りのその先にある感情」こそが人間性だと。不寛容が世界を覆うこの時代に、それでも「受け入れる」という行為の可能性を信じることをやめないデル・トロの、これは生涯かけての答えの一つなのかもしれません。
視聴後に怪物の孤独が襲ってくるそんな余韻を持つ作品です。





