映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』は、とある問題があるように感じてしまいました。それは別々に書かれた二つの脚本を無理やり一つにまとめたような構成です。
一つは「傭兵チームが恐竜の島でDNAサンプルを採取するミッション」、もう一つは「家族が恐竜の島でサバイバルする物語」。そして後者は『ジュラシック・パークIII』や『ジュラシック・ワールド』シリーズでたびたび描かれてきたストーリーであり、今さら新鮮味はありません。

そして映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』ではこの二つのプロットが中途半端に絡み合い、どちらのドラマも十分に深まらないまま終わってしまいたのです。
特に家族側のストーリーは、存在意義が極めて薄いと感じてしまいました。長女のボーイフレンドが父親の信頼を得ようとする展開が示唆されますが、その関係性は最後まで曖昧なまま放置されます。むしろこの家族は、企業側の悪役キャラクターを「本当に悪い人物」として描くための道具のように扱われており、ストーリー上の必然性が感じられません。
脚本を担当したデヴィッド・コープは、オリジナル『ジュラシック・パーク』で見事な構成力を見せた実力者ですが、映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』では、その才能が発揮されているとは言い難い状況でした。
温和すぎる傭兵と存在意義が不明瞭な家族が示す脚本の甘さ
温和なナターシャに見えてしまった傭兵リーダー
映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』はスカーレット・ヨハンソンが演じる傭兵リーダーは、「冷徹な殺し屋」なのか「陽気なヒーロー」なのか「トラウマを抱えた元兵士」なのか、キャラクター像が定まらない印象でした。目的である心臓病治療のためもどうも中途半端です。
特に問題だったのは、彼女があまりにも温和で優しげに描かれすぎている点です。マーベル映画でヨハンソンが演じたナターシャ・ロマノフ(ブラック・ウィドウ)のような、危険な任務を遂行する冷静な工作員としての雰囲気を期待していましたが、映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』の彼女はまるで優しいお姉さんのようで、傭兵としての説得力に欠けていました。ヨハンソン自身も、どう演じればいいのか戸惑っているように見える瞬間がありました。
唯一、マハーシャラ・アリが演じるダンカンだけは、仲間を失ったときに悲しみを表現する場面があり、人間らしさを感じさせてくれます。しかしそれ以外のキャラクターたちは、感情の起伏に乏しく、まるでチェスの駒のように物語の都合で動かされているだけに見えました。
興味深い制作エピソードとして、当初は「ダンカンが死亡するバッドエンド」と「ダンカンが生存するハッピーエンド」の両方が撮影され、試写の反応を見て最終的に生存版が採用されたそうです。確かにダンカンの死は後味の悪さを残したでしょうが、それは彼が唯一感情移入できるキャラクターだったからこそ。逆に言えば、他のキャラクターが死んでも誰も気にしないということでもあります。

遭難家族の存在意
映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』でもう一つストーリーである、隔離区域内で家族旅行をしていた一家が本当に疑問です。
恐竜が生息する危険地帯として世界中に知られている場所で、なぜ父親は家族を連れてクルージングをしていたのでしょうか?どうやって検疫をすり抜けて侵入したのでしょうか?これらの疑問には一切答えが与えられません。
家族の一員である娘のボーイフレンドは、典型的な「嫌な奴」として描かれており、「早く恐竜に食べられてほしい」と思ってしまうほどでした。しかし残念ながら(?)彼は生き延びてしまいます。
この家族は物語に何の必然性も持たず、ただスクリーンタイムを埋めるためだけに存在しているように感じられました。むしろ彼らのシーンをすべてカットして、傭兵チームのドラマをもっと深く掘り下げたほうが、よほど良い映画になったのではないかと思います。
繰り返されるパターンと失われたオリジナリティ
ギャレス・エドワーズ監督の強みである「巨大生物のスケール感を表現する映像センス」は、映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』でも随所に発揮されています。特に水中を泳ぐティラノサウルスのシーンは、本作最大の見どころと言えるでしょう。
しかし、恐竜アクションシーン全体を通して感じたのは「同じパターンの繰り返し」でした。恐竜が追いかけてくる→人間が走る→ギリギリのところで恐竜の牙が届かない→何かにぶら下がる→足元で恐竜が噛みつこうとする→またギリギリで逃げ切る。この構図が、舞台を変えながら何度も何度も繰り返されます。
最初は緊張感がありますが、3回目、4回目となると「またこのパターンか」という既視感が強くなり、次第に退屈さすら感じるようになりました。オリジナル『ジュラシック・パーク』のキッチンでのヴェロキラプトル逃走シーンのような、知恵を使った緊張感ある攻防が欲しかったところです。
オリジナルへの過度な依存
映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』には、オリジナル『ジュラシック・パーク』からの引用やオマージュが数多く登場します。キッチンでのヴェロキラプトル逃走シーンを彷彿とさせる室内逃走劇(ただし今回は翼竜)、マイケル・クライトンの原作小説に登場した川下りのシーンなど、ファンサービスとしての意図は理解できます。
しかし、これらの引用が逆に映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』のオリジナリティの無さを際立たせてしまっているように感じました。まるで「フランケンシュタインの怪物」のように、過去作の優れたパーツを切り貼りして作られた映画であり、それが映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』の正体なのです。
皮肉なことに、劇中の恐竜たちが遺伝子操作によって生み出されたキメラ的存在であるように、映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』という作品自体も、過去のジュラシックシリーズから切り取られた要素の寄せ集めになってしまっています。
技術的な粗さと盛り上がりに欠ける展開
今回の「ジュラシック・ワールド」を鑑賞して驚いたのは、グリーンスクリーンの合成が目立つ場面が多数あったことです。俳優たちが明らかにスタジオのセットで演技しているのに、背景だけCGで島の風景が合成されているシーンでは、正直俳優と背景の照明の質が合っているとは思えず、非常に不自然に見えます。
オリジナル『ジュラシック・パーク』が実物大のアニマトロニクス恐竜とCGを巧みに組み合わせることで圧倒的なリアリティを生み出したのに対し、映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』は過度にCGに依存した結果、逆に安っぽさを感じさせる仕上がりになってしまっている印象です。
また、露骨なプロダクトプレイスメント(商品の宣伝的配置)も気になりました。特に室内でのアクションシーンで、ある飲料メーカーや食品メーカーのロゴが不自然なほど長時間、画面に映り込んでいる瞬間があります。緊張感あるシーンのはずなのに、視聴者の意識が「あ、あのブランドの宣伝だ」と別のところに向いてしまうのは、映画体験として問題があると思いました。
もはや恐竜ではなく「怪物」
映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』に登場する恐竜たちは、もはや恐竜と呼べるものではありません。遺伝子操作によって生み出された変異種は、トレーディングカードゲーム『マジック:ザ・ギャザリング』のクリーチャーカードのようなデザインで、科学的なリアリティはほぼ皆無です。
確かにシリーズ全体が「遺伝子操作された生物」という設定ですが、映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』ではそのSF的な要素が極端に強調され、もはやSFホラーの怪物映画になってしまっています。「新種の恐竜」として登場する生物は、恐竜というよりエイリアンに近く、「これは恐竜映画なのか、それともクリーチャーパニック映画なのか?」という疑問が最後まで拭えませんでした。
夏休み映画に成り下がったフランチャイズ
映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』を一言で表現するなら、「ありきたりな夏休みの恐竜映画」という言葉がぴったりだと思います。
大手スタジオが夏休み興行を狙って、有名俳優を起用し、莫大な予算でCGを駆使し、過去のヒット作の要素を詰め込んで作った――そんな典型的なブロックバスター映画の一つに過ぎません。オリジナル『ジュラシック・パーク』が持っていた「映画史に残る傑作」としての輝きは、映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』には一切ありません。
失われた「パークの精神」
オリジナル『ジュラシック・パーク』(1993年)は、スティーヴン・スピルバーグ監督、マイケル・クライトン原作という最強タッグによって生み出された、SF映画の金字塔です。CGとアニマトロニクスを組み合わせた革新的な映像技術、ジョン・ウィリアムズの壮大な音楽、そして「科学の暴走」という普遍的なテーマ――すべてが完璧に融合した傑作でした。
続く『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(1997年)は賛否両論ありましたが、少なくとも「恐竜を本土に連れ帰る」という新しい展開を提示しました。『ジュラシック・パークIII』(2001年)は小規模ながら、テンポの良いアクション映画として成立していました。
2015年の『ジュラシック・ワールド』は、テーマパークが実際に運営されている世界という設定で新鮮さを取り戻し、続く『炎の王国』(2018年)や『新たなる支配者』(2022年)も、賛否はあれど新しい方向性を模索していました。
しかし映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』には、そうした「新しさへの挑戦」が感じられません。ただ恐竜が人を追いかける、という最も基本的な構図に逆戻りしてしまったように思います。
『GODZILLA ゴジラ』(2014年)や『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(2016年)で、ギャレス・エドワーズ監督が見せた緊張感ある演出や、人間ドラマと怪獣映画の融合は、映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』ではほとんど発揮されていません。
子供たちが夏休みに家族で観るには十分かもしれませんが、映画ファンが期待する知的興奮や感動は得られないでしょう。
興行収入8億ドル超えと商業的には成功
もっとも、興行収入という観点から見れば、映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』は確かに「夏休み映画」として成功を収めたと言えます。北米オープニング週末で約9200万ドル、グローバル5日間で3億1800万ドルを記録し、2025年最大のオープニング成績を達成しました。最終的な全世界興行収入は8億6900万ドルに達し、製作費1億8000万ドルに対して十分な利益を生み出しています。
しかし、これはあくまで「ジュラシック」というブランド力がもたらした数字ではないでしょうか。批評家からの評価はRotten Tomatoes 51%と低迷し、過去のジュラシック・ワールド三部作(それぞれ16億7000万ドル、13億1000万ドル、10億ドル)と比較すると明らかに下降線を辿っています。観客は確かに劇場に足を運びましたが、それは作品の質に惹かれたのではなく、恐竜が暴れる映像を大画面で観たいという、極めて単純な動機によるものだったのではないでしょうか。
まとめ:復活すべきだったのは「大地」ではなく「パークの精神」
映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』は、恐竜映画として最低限の娯楽性は備えているものの、シリーズ作品として、そして一本の映画作品としては、多くの問題を抱えていると思いました。
キャラクターの薄さ、構成の破綻、繰り返されるアクションパターン、過去作への過度な依存でこれらすべてが、映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』を「ありきたりな夏休みの恐竜映画」以上のものではなかったですね。
オリジナル『ジュラシック・パーク』が私たちに教えてくれたのは、「生命は道を見つける」という自然の力強さでした。しかし映画『ジュラシック・ワールド/復活の大地』が示しているのは、「フランチャイズもまた道を見つける」もので、どんなに内容が薄くても、ブランド力さえあれば映画は作られ続けるという、残酷なハリウッドの現実なのかもしれません。
ただ恐竜たちが画面を駆け回るだけでは、もう観客の心は動かせないのかもしれません。





