映画「さがす」はやはり主演を演じる佐藤二朗の演技に目をみはるものがあります。佐藤氏のキャリアにおいて新たな境地を開いたと言えるのではないでしょうか。佐藤氏のこれまでのコミカルで気のいいおじさんというイメージを完全に払拭し、闇を抱えた父親役を見事に演じています。特に印象的なのは、妻の介護に苦しみながらも必死に娘を守ろうとする前半と、ある決断を迫られる後半の演じ分けです。
妻がALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、「殺してほしい」と懇願される場面では、愛と苦悩が入り混じった複雑な感情を見事に表現しています。首を絞めようとするが、やはりできずに抱きしめるしかないという矛盾。佐藤二朗でなければ、この微妙な心理描写は実現しなかったでしょう。

「こっち側とあっち側」―境界線が映す善悪と生死
映画「さがす」は「こっち側とあっち側」です。善と悪、生と死、正常と異常。この境界線を象徴的に描く演出が、作品全体に深みを与えています。
物語は、娘→犯人→父親という3つの視点で時系列を行き来します。オープニングで父がハンマーを振る練習をするシーン、そして万引きをする姿。これらは既に父が「あっち側」の人間であることを暗示しています。
特に印象的なのは、娘が犯人を追いかけるシーンです。犯人は最後に壁を越えて「あっち側」へ逃げていきます。この「壁」という境界線の使い方は、作品を通して繰り返し登場します。ピンポンクラブでの窓を新聞紙で覆ったシーン、病院の屋上で白いシーツが風に揺れるシーン。これらすべてが「こっち側」と「あっち側」を分ける境界を表現しているのです。
そして何より重要なのが、ラストシーンの卓球台のネットです。父と娘がネット越しにピンポンをする姿で映画は終わりますが、このネットこそが最終的な境界線。娘は「こっち側」に留まり、父を裁く側に立ったのではと感じてしまいました。
繊細なモチーフの使い方
片山監督の演出で特筆すべきは、細部にまで計算されたモチーフの使い方です。
プレミアムモルツ: 父はプレミアムモルツを飲みますが、犯人は飲みません。犯人がピンポンクラブで弁当を食べるシーンで父だけがモルツを飲んでいることから、実は犯人が父のためにビールを買っていたことが読み取れます。これは犯人にとって父が初めての理解者だったことを示唆しています。
ホームランバー: 犯人が語る「ホームランバーを食べながら家が建つのを見ていた」という最初の記憶。ホームランバーは当たりが出ればもう1本もらえることから、「再生」のメタファーとして機能します。犯人が何度も死にかけながら復活する様子と重なり、生と死の境界を象徴しています。
白い靴下: オープニングで娘が白い靴下を拾うシーン。これは犯人が死体に履かせる靴下であり、物語の核心を予告しています。
ポン・ジュノから受け継いだ物語構造―時系列の妙とラストの意味
本作は、娘のパート、犯人のパート、父のパートと3つの時系列を交互に描くことで、観客を物語に引き込みます。この構成は、ガイ・リッチー監督の作品やポン・ジュノ監督の『母なる証明』を彷彿とさせます。
片山監督は、ポン・ジュノ監督の『母なる証明』で助監督を務めた経歴を持ちます。『母なる証明』は、息子を信じる母が真実にたどり着き、最後に母として試される物語でした。本作も同様に、娘が父の本当の姿を探していき、最後にある決断を迫られる構造になっています。また、前作『岬の兄弟』でも人間の闇と社会問題を描いており、今作でもその要素は継承されています。新聞紙で窓を覆う演出は両作品に共通しており、閉ざされた心の世界を表現しています。
特に興味深いのは、冒頭で娘が「父の名を騙る指名手配犯」を見つけるという設定です。警官に「君は一体誰を探しているの?」と問われるこのシーンが、実は物語の核心を突いています。娘が探していたのは、実は殺人犯となった父そのものだったのです。最後に娘が「見つけた」と言う意味は、父の本当の姿を見つけたということなのです。
映画は、父と娘が卓球台を挟んでピンポンをするシーンで終わります。「うちの勝ちや」という娘の言葉。何の勝負かといえば、娘が父を超えて成長し、「こっち側」の人間として父を裁く側に立ったということです。

このラストシーンがなければ、本作は救いのない胸糞悪い映画で終わっていたでしょう。しかし、娘が父の本当の姿を見つけ、それでも前に進む決断をしたことで、物語は一筋の希望を見せてくれます。「ダーク母なる証明」でありながら、娘の成長譚としても読める二重構造が、この作品を単なるサスペンスを超えた傑作にしています。
まとめ:境界線の向こうに何を見るか
『さがす』は、娘が父を探す物語であると同時に、観客自身が「こっち側とあっち側」の境界線を見つめ直す映画です。善と悪、生と死、愛と罪。これらの境界はどこにあるのか。父は本当に「あっち側」の人間だったのか。娘は「こっち側」に留まれたのか。
佐藤二朗の怪演、清水尋也の鋭い眼光、青山あおいの成長を感じさせる演技。そして片山監督の緻密な演出と脚本。すべてが高いレベルで融合した本作は、日本映画の傑作と言えるものでした。
そして観終わった後、あなたは卓球台のネットの、どちら側に立っているでしょうか。





