映画「ナイトメア・アリー」はホラーの巨匠ともいうべきギレルモ・デル・トロ監督作品です。ギレルモ・デル・トロ監督といえば、『パンズ・ラビリンス』や『シェイプ・オブ・ウォーター』など、ファンタジーや超自然的要素を巧みに操る映像作家としてご存じの方は多いのではないでしょうか。そんな中本作『ナイトメア・アリー』では、一切の超自然的要素を排除し、純粋に人間の欲望と悪意だけで物語を紡ぎました。
そして怪物が登場しなくとも、デル・トロの映像は相変わらず禍々しく美しく、人間の内面に潜む闇こそが最も恐ろしい怪物であることを証明してみせたのです。
監督自身が「偉大なフィルム・ノワールを作りたかった」と語るように、本作は古典的なハリウッド映画の様式美を現代に蘇らせた作品なのです。それは黒くにじむトランジションや、アールデコ様式の豪華なセット、計算し尽くされたライティングがあり、これらすべてが、1940年代の映画黄金期へのオマージュとなっています。

圧倒的な美術と撮影が生み出す悪夢的世界
映画「ナイトメア・アリー」の映像美を語る上で欠かせないのが、美術監督タマラ・デヴェレルと撮影監督ダン・ローステンの仕事でしょう。カーニバルの怪しげな見世物小屋から、リリスの執務室の贅を尽くしたアールデコ調の内装まで、すべてのセットが圧倒的な説得力を持って観客を物語世界へと引き込みます。

特に印象的なのは、序盤のカーニバルのシーンでした。カーニバルは暗く湿った空気感、奇妙な見世物たち、そして「ギーク」と呼ばれる獣人の存在があります。この世界観の宣言ともいえる冒頭シーンで、デル・トロは容赦ない現実の残酷さを突きつけてきます。ギークが生きた鶏を食いちぎるシーンは、『シェイプ・オブ・ウォーター』で半魚人が猫を食べたシーンを彷彿とさせ、人間の本質に蓋をしない作風を体現しています。
中盤から登場するリリスの執務室兼カウンセリングルームは、贅を尽くしたアールデコ様式で統一され、彼女の金銭欲と権力への執着を象徴しています。隙のない美しさを持つこの空間は、ケイト・ブランシェットの存在感と相まって、観る者を魅了し、同時に不安にさせる効果を生み出しています。
ブラッドリー・クーパーという俳優の新境地
本作でスタントン・カーライル(スタン)を演じるブラッドリー・クーパーは、『アリー/ スター誕生』(2018年)で監督・主演を務め、『アメリカン・スナイパー』(2014年)で実在の狙撃手を演じ、『世界にひとつのプレイブック』(2012年)でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた実力派俳優です。そんな彼は、本作で見せたのは、これまでとはまったく異なる邪悪な魅力でした。
スタントン・カーライルは甘い笑顔で人々を魅了する詐欺師としての表の顔と、欲望に取り憑かれた邪悪な本性があり、この二面性を見事に演じ分けています。特に注目すべきは、スタンという人物の微妙な変化を繊細に表現した点です。序盤では、野心はあるものの、ギークに対してかすかな優しさを見せる一面も持っていました。しかし物語が進むにつれ、彼は少しずつ人間性を失っていきます。その変化は決して派手ではなく、表情のわずかな翳りや、仕草の変化といった細部に表れるのです。
クーパーは甘い言葉で人を操る詐欺師を演じながら、同時にその内面の空虚さも表現しています。スタンは「欠けた部分を持つ人間」として描かれ、その空洞を埋めようと次々に人を利用しますが、決して満たされることはありません。この虚無感と焦燥感を、クーパーは見事に体現しているのです。
そして何よりも圧巻なのは、ラストシーンの笑いです。様々な解釈を喚起するあの表情は、観る者の心に深く刻まれることでしょう。
実力派脇役陣が織りなす人間模様
本作の魅力は主演のブラッドリー・クーパーだけではありません。実力派の役者陣が、それぞれのキャラクターに深みを与えているのです。
ケイト・ブランシェットの妖艶な魔性
ケイト・ブランシェットが演じる心理学博士リリス・リッターは、本作におけるもう一人の主役と言っても過言ではありません。中盤から登場する彼女は美しさと、冷徹な計算高さを併せ持つ彼女の存在は、スタンを破滅へと導く鍵となります。
ブランシェットの演技は抑制が効いており、派手なアクションや大仰な台詞回しに頼ることなく、眼差しと佇まいだけで圧倒的な存在感を放ちます。豪華なアールデコの執務室に座る彼女は、まるで蜘蛛の巣の中心に陣取る蜘蛛のようであり、スタンがその罠に嵌まっていく様子は、見ていてゾクゾクするような快感すら覚えます。
リリスとスタンの関係性は、互いに利用し合う共犯者でありながら、同時に獲物と捕食者の関係でもあります。どちらが主導権を握っているのか曖昧なまま物語が進み、やがてその力関係が明らかになる瞬間の衝撃は強烈でした。

ルーニー・マーラの儚さ
ルーニー・マーラが演じるモリーは、古典的な映画ロマンスの定型にはまったキャラクターではありますが、それでもマーラの繊細な演技が彼女に命を吹き込んでいます。
モリーというキャラクターは、作品の中で意図的に「謎めいた存在」として描かれています。観客は彼女の内面を深く知ることはできませんが、それがかえって彼女の儚さと純粋さを際立たせる効果を生んでいます。特に、霊媒ショーで幽霊役を演じるモリーの姿は、その美しさと悲しさが同居した印象的な映像となっています。

ウィレム・デフォーの怪演
ウィレム・デフォーが演じるカーニバルの支配人クレムは、まさに彼の当たり役と言えるでしょう。小汚い見た目と裏社会の生業に就く人間特有の狡猾さを見事に体現しており、彼が登場するだけで画面に緊張感が走ります。
クレムがスタンに「ギークの作り方」を語るシーンは、本作でも最も印象的な場面の一つです。人間を見世物として堕落させる非人道的な手法を、淡々と、しかし生々しく語るデフォーの演技は、観る者の背筋を凍らせます。
トニ・コレット、リチャード・ジェンキンスの存在感
トニ・コレットが演じる霊能者ジーナや、リチャード・ジェンキンスが演じる大富豪グリンドルも、短い出演時間ながら強い印象を残します。
特にグリンドルとのやり取りは、終始緊迫感に満ちています。亡くなった恋人の霊と会話したいと願う彼の切実な想いを利用して詐欺を働くスタンですが、疑い深いグリンドルを騙し切ることは容易ではありません。見破られるかとハラハラさせてからの全幅の信頼、そしてモリーを幽霊の身代わりに立たせるという無謀な試みがあり、この一連のシーンは、本作のクライマックスの一つと言えるでしょう。
「酒」と「時計」が紡ぐ因果応報の円環
映画「ナイトメア・アリー」は、繰り返し登場する象徴的なモチーフがいくつかあります。その中でも特に重要なのが「酒」と「父の形見の腕時計」です。
スタンは当初、頑なに飲酒を拒んでいました。断片的に描写される父親への憎しみがあります。彼が父の死について語る際の冷たい口調、そして「あの男は酔っ払いだった」という言葉からは、深い嫌悪感が滲み出ています。それゆえに彼は酒を遠ざけていたのでしょう。しかし同時に、憎んだはずの父の形見である腕時計を身に着け続けていたことは、彼の複雑な心情を物語っています。愛と憎しみが入り混じった感情、あるいは父親のようになることへの恐れと、同時にその影響から逃れられない現実が、この一つの持ち物に凝縮されているのです。
そして物語が進むにつれ、スタンは次第に酒を拒まなくなります。リリスと組んで富裕層から大金を巻き上げるようになった頃から、彼は進んで酒を口にするようになり、それは彼が悪の道に深く足を踏み入れていることの象徴でもあります。そして最終的に、彼は酒を求めて大切にしていた父の腕時計を手放し、ギークへと誘う酒も飲み干します。

ループする悪夢という完璧な構造
この拒絶していた酒を飲み転落していく一連の流れは、スタンが父親と同じ道を辿っていることを暗示しており、まさに因果応報の物語として完結するのです。本作の構造は、見事な円環を描いています。序盤に登場したギークの存在は、実はラストへの伏線でもありました。スタンがギークへと堕ちていく過程は、後半からうっすらと見えてきますが、「一時的な仕事」への誘いと酒で暗示して、ストンと切るように終わる演出は、実に潔く美しいものです。
この終わり方は、昔話の因果応報エンドのような様式美を感じさせます。決してありきたりではなく、むしろ古典的な物語の持つ普遍的な力を現代に蘇らせたと言えるでしょう。スタンが踏み込んだ欲と悪事の道は、結局のところ「悪夢小路(Nightmare Alley)」と名付けられた、ギーク候補が拾われる場所へと直結していたのです。
彼が人々を操り、利用し、堕落させてきたように、今度は彼自身が堕落させられる側になる──この皮肉な逆転は、観る者に深い余韻を残します。
デル・トロの野心作と原作小説の世界
『ナイトメア・アリー』は、単なるリメイクでも、単なるノワール映画でもありません。これはギレルモ・デル・トロという映像作家が、自身のキャリアの集大成として放つ、古典的ハリウッド映画へのラブレターなのです。
原作小説『悪夢小路』について
本作の原作は、ウィリアム・リンゼイ・グレシャムが1946年に発表した小説『悪夢小路』です。作者自身がカーニバルで働いた経験を持ち、その内幕を生々しく描いた本作は、当時としては極めて暗く容赦ない内容で話題となりました。特にギークの存在や、メンタリストの手法など、カーニバルの裏側を赤裸々に描写した点が衝撃を与えました。1947年に一度映画化されていますが、当時の検閲制度により原作のダークな結末は変更を余儀なくされています。デル・トロ版は、原作小説の精神により忠実に、容赦ない人間の転落を描き切っています。
- タイトル
- ナイトメア・アリー 悪夢小路 (海外文庫)/ウィリアム・リンゼイ・グレシャム
古典への敬意と現代的挑戦
デル・トロは本作で、1940年代の映画黄金期の様式美を現代の技術と社会批評で再構築しました。往年の名作が持っていた格調高さと、現代映画が持つリアリティを両立させることで、時代を超えた普遍的な物語を紡ぎ出したのです。
特筆すべきは、デル・トロが本作で見せた「抑制」です。彼の過去作品は、その豊穣な想像力とビジュアルの過剰さで知られていましたが、本作ではその才能を抑制することで、かえって物語と人間ドラマの力を引き出すことに成功しています。これは単なる自己規制ではなく、デル・トロという作家の新たな境地を示すものです。超自然的要素に頼らずとも、人間の内面に潜む闇だけで十分に恐ろしく、美しい物語が作れることを証明してみせたのです。
ロマンス描写という小さな課題
本作の数少ない弱点を挙げるとすれば、それは中盤のロマンス描写でしょう。スタンとモリーの恋愛関係は、古典的なハリウッド映画の様式に則った「美男美女が出会って恋に落ちる」という定型的なものです。二人がなぜ惹かれ合ったのか、その心理的な過程は十分に描かれておらず、観客は「美しい二人だから恋に落ちた」という表層的な理解にとどまってしまいます。
特にモリーというキャラクターは、意図的に謎めいた存在として描かれているため、彼女の内面を知る手がかりが少なく、感情移入しづらい面があります。もし彼女の背景や動機がもう少し丁寧に描かれていれば、中盤のロマンスパートもより魅力的になったでしょう。この点は、2時間20分という長尺にもかかわらず、若干のバランスの悪さを感じさせる要因となっています。
しかしそれでも、デル・トロの手腕と俳優陣の熱演が、こうした小さな欠点を補って余りあることは確かです。
まとめ 欲望という名の悪夢小路を辿る普遍的な物語
映画『ナイトメア・アリー』は、ギレルモ・デル・トロ監督のキャリアにおける新たな到達点です。超自然的要素を排してなお、彼の映像は美しく禍々しく、人間の内面に潜む闇を容赦なく暴き出します。
ブラッドリー・クーパーの圧巻の演技、ケイト・ブランシェットの妖艶な存在感、そして実力派脇役陣の競演が、古典的な様式美と現代的な社会批評を両立させた物語に命を吹き込んでいます。
現代ハリウッドへの問いかけ
本作は、ディズニーに買収された20世紀フォックスが製作した、古典的な大人向けドラマです。しかし皮肉なことに、このような作品こそが現代のハリウッドでは最も作りにくくなっているのではないでしょうか。大規模なフランチャイズやブランド作品が優先される現代において、『ナイトメア・アリー』のような骨太な大人向けドラマは、劇場公開すら危ぶまれる状況にあります。
実際、本作の公開タイミングも最悪で、年末の混雑期に他の大作と競合することになってしまいました。しかし、だからこそ本作のような映画を支持することが重要なのです。これは単なる一本の映画ではなく、古典的なハリウッド映画の伝統を現代に繋ぐ架け橋であり、ドラマ映画というジャンルの可能性を示す試金石でもあるのです。
普遍的なテーマへの回帰
映画『ナイトメア・アリー』は、欲望とは何か、人間性とは何か、という普遍的なテーマでした。主人公のスタンが辿った悪夢小路(ナイトメア・アリー)は、実は私たち誰もが持つ欲望の道でもあるのではないでしょうか。彼の破滅を目の当たりにした時、観客は自らの内面を覗き込むことになるでしょう。
2時間20分という長尺にもかかわらず、一度観始めたら目が離せない緊張感と、何度も観返したくなる奥深さを併せ持つ魅力があります。
古典的なハリウッド映画の伝統を愛するすべての映画ファンに、そしてデル・トロという作家の新境地を目撃したいすべての観客に、自信を持って推薦できる一作です。できれば大画面で、本作の圧倒的な映像美を堪能していただきたいと思います。





