映画『スーパーマン』は、2013年から続いてきたDCエクステンデッドユニバース(DCEU)から世界観をほぼ仕切り直し、新たなDCユニバースの第一作として制作された作品です。
そしてこの大役を任されたのが、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)で「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」三部作を成功させたジェームズ・ガン監督です。DC映画部門のトップに就任した彼は、スーパーマン単独映画を新ユニバースの出発点に選びました。

興味深いのは、この映画がスーパーマンの起源を一切描かないという大胆な構成にあります。冒頭、わずか数行の字幕で世界観を説明し終えると、物語はいきなり「スーパーマンが活動を開始して3年後」「3週間前にボラビアとジャルハンプールの紛争に介入して物議を醸している」という状況から始まります。
クリプトン星が爆発し、赤ん坊が地球に送られ、カンザスで育てられ、成長してスーパーマンになったとそんな誰もが知っている物語は完全に省略されているのです。
ジェームズ・ガン監督が体現する「全てのキャラクターへの愛」
ジェームズ・ガン監督の最大の魅力は、どんな脇役にも徹底的に「キャラクター性」を与える点にあると思います。
MCUの「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」では、人生で失敗ばかりしてきた”負け犬”たちがお互いの傷を共有し、銀河を救うヒーローチームになる物語を描きました。そしてDCの「ザ・スーサイド・スクワッド」では、犯罪者として刑務所に収監されている者たちが強制的にチームを組まされ、結果的にヒーローとして活躍する姿を見せました。
そんな監督が、史上最も完璧なヒーロー「スーパーマン」をどう描くのか。答えは明確でした。スーパーマンを「人間」として描くのです。
映画『スーパーマン』の冒頭、スーパーマンは地上に倒れています。顔には傷が走り、出血し、立ち上がることができません。「鋼鉄の男」が敗北した。この衝撃的な導入が、映画全体のテーマを端的に示しています。
空を自由自在に飛べるスーパーマンが地上に落下するというビジュアルは、スーパーマンも私たちと同じ地上を生きる人間であることを示しています。この映画は、徹底的にスーパーマンの人間としての側面を浮き彫りにしていく「スーパーマンの人間宣言映画」だと感じました。
ジェームズ・ガン作品に共通する「負け犬たちへの優しさ」
ジェームズ・ガン監督がこれまで描いてきたヒーローたちは、決して世間的な理想の超人ではありません。自らを「負け犬」と思っている、人生で失敗を繰り返してきた者たちでした。
今回のスーパーマンも、その系譜に連なります。恋人ロイス・レインとの取材シーンで明らかになるのは、スーパーマンがアメリカの同盟国ではないジャルハンプールを侵攻から防いだことで国民から非難を浴びているという事実です。
ソーシャルメディア上では「#スーパーシット(#SuperShit)」がバズり、「国を代表するな」と炎上しています。スーパーマンは国民全員に受け入れられているわけではないとつまり、アウトサイダーとして描かれているのです。
そして、そのことに対してスーパーマンが非常に感情的な反応を見せます。ボラビア国の大統領に脅迫めいたことをしたり、ヒーローとしての未熟さが垣間見えます。このとても人間的なスーパーマン像こそが、ジェームズ・ガン監督らしいアプローチです。
脇役に至るまで全員に個性がある集団描写
ジェームズ・ガン監督の手腕が最も光るのは、集団の中の個人一人ひとりを魅力的に見せる点です。
映画『スーパーマン』には、ジャスティス・ギャング(The Justice Gang)という企業がスポンサーについているヒーローチームが登場します。ミスター・テリフィック、グリーン・ランタン(ガイ・ガードナー)、ホークガールの3人です。
このチームは全体的に「雑」で、スーパーマンとは真逆に市民への被害を考慮しない戦い方をします。本拠地である「ホール・オブ・ジャスティス」がまだ工事途中というのも笑いを誘います。
特にミスター・テリフィックは理系男子の心をくすぐるキャラクターで、個人的にはMVP(Most Valuable Player)でした。小学生の頃に見ていたら、間違いなくミスター・テリフィックのフィギュアを欲しがっていたと思います。「人間の心には興味がない」と言いながらスーパーマンやロイス・レインと触れ合うにつれて感情を見せるツンデレ・クーデレな魅力が光ります。
ネイサン・フィリオンが演じるガイ・ガードナー(グリーン・ランタン)も、ジェームズ・ガン特有のコミカルなキャラクター造形で楽しませてくれます。初日上映では、彼のあるシーンで劇場に爆笑が起こったほどです。
デイリー・プラネット新聞社の面々も魅力的です。「ブックスマート」で印象的だったスカイラー・ギソンドが演じるジミー・オルセンは、なぜか全女性にモテすぎるという謎設定で笑いを誘います。これもジェームズ・ガンらしいおふざけです。
クリプト(スーパードッグ)の予測不可能な魅力
実写映画では初登場となるスーパーマンの相棒犬、スーパードッグのクリプトも大きな見どころです。
クリプトは、スーパーマンもミスター・テリフィックも振り回す予測不可能なワンちゃんとして、作品全体にコミカルさを与えています。人間のことは理解しないけれど超能力を持った愛らしい存在——これも、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.2」のベビー・グルートや、ドラマ「ピースメーカー」のイーグリー(ワッシー)といったジェームズ・ガン監督らしいアクセントです。
デヴィッド・コレンスウェットが演じる「人間らしいスーパーマン」
新たなスーパーマンを演じるのは、「パール」や「ツイスターズ」で注目を集めたデヴィッド・コレンスウェットです。
彼のスーパーマンは、これまでのどのスーパーマンよりも「人間」であり、本作のスーパーマンを人間にしたと思います。
クリストファー・リーヴとの比較
1978年版『スーパーマン』でクリストファー・リーヴが演じたスーパーマンは、多くの人にとって「スーパーマンの理想像」として記憶されています。飄々とした雰囲気、時折見せる鋭い眼光、そして戦闘時の身のこなし——リーヴ版スーパーマンは、ある種の「父性的な完璧さ」を体現していました。
一方、デヴィッド・コレンスウェット版スーパーマンは、より「共感できる」存在として描かれています。それは、スーパーマンの二面性の表現です。普段は穏やかな口調で話している彼が、戦闘モードに入った瞬間の豹変ぶり。目つきが一瞬で変わる演じ分けは迫力があり、演技の幅の広さを感じさせます。
感情的で未熟なスーパーマン
今回のスーパーマンの特徴は、感情的であるという点です。
ロイス・レインとの会話シーンで、ボラビアとジャルハンプールの紛争介入について議論する場面があります。ロイスが影響を考えるおと正論を述べると、スーパーマンは声を荒げて「人が殺されかけてたんだよ!(People were dying!)」と反論します。
この感情的な反応こそが、今回のスーパーマンの「人間らしさ」を象徴しています。
「僕だって人間だ(I’m human.)」という宣言
クライマックスでスーパーマンがレックス・ルーサーに放つ言葉は、映画全体のメッセージを凝縮したものです。
「僕だって人間だ。時に怯え、時に愛する人間だ。良きことのために最善を尽くそうとする人間に他ならない」
“I’m as human as anyone. I love, I get scared.”
この「人間宣言」こそが、映画『スーパーマン』の核心です。MCU第一作『アイアンマン』でトニー・スタークが「I am Iron Man(私がアイアンマンだ)」と人間宣言をしたように、DCユニバースもまた、ヒーローの人間性から始まるのです。
今までルーサーに向けられていた言葉が、一気に観客にも向けられる瞬間です。同じ人間であるみんなも、観客も、スーパーマンになれる。この観客を巻き込む力こそが、ジェームズ・ガン監督の真骨頂です。
幼少期のホームビデオが示す「普通の子供」としてのクラーク
ラストシーン、全てを終えて孤独の要塞に戻ったスーパーマンが見るのは、幼少期のホームビデオです。
そこには、カンザスでジョナサンとマーサに愛情を持って育てられている幼いクラークの姿が映っています。そして、幼少期のクラークが空を飛ぶヒーローの真似をしているとまさに「スーパーマンごっこ」をするクラークの姿は、全世界のヒーローに憧れている子供たちそのものです。
この映像が示すのは、クラークだって、スーパーマンだって、私たちと同じような人間なんだということ。そして、誰もがスーパーマンになれる可能性を持っているというメッセージです。
このラストの人間宣言をより拡張して観客を巻き込むという、なんともジェームズ・ガン監督らしい力強く感動的なラストだったと思いました。
ニコラス・ホルトのレックス・ルーサーが体現する「現代の悪」
レックス・ルーサーを演じるニコラス・ホルトは、「マッドマックス 怒りのデスロード」や「X-MEN」シリーズで知られる実力派俳優です。
スーパーマンとの対照性
今回のルーサーは、スーパーマンと真逆の存在として描かれています。賢くて、彼なりの信念もあり、彼なりに「いいことをしているつもり」なのです。
例えば弱者を助けるとか、そういうことは一切せず、結局やっぱり俯瞰してみると自分の都合でしかないとこれは非常に「今っぽい」ヴィラン設定だと思います。
フェイクニュースと世論操作
今回のルーサーは、フェイクニュースを流し、ヘイトで分断を煽り、それをビジネスにしている人物として描かれています。
劇中で最もブラックな笑いだったのが、移民・難民であるスーパーマンへのヘイト・アンチポストを投稿していたのが、ルーサーがポケットユニバースで飼っている猿「モンキーポッド」だったという描写です。

脳を支配された猿たちが、怒りながらヘイトコメントをしている姿は、ファミリー向け映画にしてはブラックすぎる描写だと思いましたが、現実問題として、お金でヘイト投稿をさせて分断を煽る政治的なロビー活動が実際に行われていること、YouTube上でもヘイト動画を投稿してそれが再生回数が回ってお金儲けになってしまっているという現状があります。
笑えない部分もありますが、ルーサーはヘイトで分断を煽ってそれをビジネスにしているのです。
現代社会の「移民の物語」と「紛争の描写」
映画『スーパーマン』には、現代社会への鋭い問題提起が込められています。ジェームズ・ガン監督自身が公開インタビューで「本作は移民の物語であり、優しさの物語」と語っています。

スーパーマンは「移民・難民」のメタファー
そもそもスーパーマンというキャラクターは、クリプト星からの「移民」であることが前提です。故郷である惑星クリプトンを失ってアメリカに来たので、より正確には「難民」が正しいかもしれません。
映画『スーパーマン』では、この元々スーパーマンが持っていた移民・難民としての側面をより強調して描いています。
劇中、レックス・ルーサーはスーパーマンを「エイリアン(異星人)(Alien)」「不法移民(Illegal alien)」だと批判し、排除しようとします。これは、排外主義が拡大する現代社会において、改めてスーパーマンを移民として語ろうという色濃い社会的メッセージです。
ボラビアとジャルハンプール
映画全編の背景にあるのが、架空の国家ボラビアによる隣国ジャルハンプールへの侵略です。
最初は「ロシアによるウクライナ侵攻のメタファーかな」と思わせる作りです。ボラビアの指導者を演じているのは、「逆転のトライアングル」でロシアのオリガルヒ役を演じていたズラトコ・ブリッチさんで、劇中で喋っている言語も一応架空ですが、ロシア語っぽく聞こえます。
しかしよく見ると、ボラビアはアメリカの同盟国であり、スーパーマンによる侵攻阻止がアメリカ国内で一部から非難されている——つまり、「同盟国でもないのに余計な介入をするな」と批判されているのです。
さらに、侵攻されたジャルハンプールという国の人々の姿は、明らかに非ヨーロッパ系です。中東、もしくはインド・パキスタンっぽい見た目の人々や服装が見られます。そして、棒などを掲げて侵略に抗議する人々に対して、ボラビア側は明らかにアメリカ製の最新兵器で完全武装しています。
この構図から連想されるのは、やはりアメリカ・イスラエルべったり体制とパレスチナの人々という構図です。
このバランス自体が、まずハリウッド映画として非常に踏み込んだバランスだと思います。
「優しさこそが新しいパンク」というメッセージ
映画『スーパーマン』の中で最も美しく、最も力強いシーンが、ロイス・レインとクラーク・ケントの会話シーンです。
窓の外では異次元生命体とジャスティス・ギャングが戦っているという状況で、二人は部屋で話をしています。(この「メタヒューマンがいる世界では、外で戦闘が起こっても避難しない」という描写も、世界観を端的に伝えて見事です。)
雑談から始まった会話で、クラークが「パンクロックが好きだった(I loved punk rock)」と話すと、ロイスは「それ、ポップミュージックじゃない?(That’s pop music, isn’t it?)」と返します。
「クラークは出会う人々を『ビューティフル(美しい・素晴らしい)』だと思う(You think everyone you meet is beautiful)」
その言葉を受けて、クラークが返すセリフが、この映画の核心です。
「優しさこそが新しいパンクだ(Kindness is the new punk rock)」
このセリフは本当に素晴らしいと思いました!
ジェームズ・ガン監督と山崎貴監督の対談で、ジェームズ・ガン監督が語った言葉がこのセリフと重なります。監督は次のように語っていました。
「私が住む世界は決していいとは言えません。意地悪な人たちがトップに登り詰めて、一方的に話を進めています。優しさというものが最も反逆的で、パンクロックと言われる世界なんです」
右も左も上も下も分断して、何が正しくて何が間違っているか分からない地獄のような世界ですけれども、目の前の人を思いやるその優しさを持って、少しでも向き合おうとする努力の姿勢は、これ絶対間違ってないと私は思います。そう信じたいし、そうじゃないかなと思うのです。
ラストシーンで流れるパンクロック
映画のラスト、クラークが幼少期のビデオを見ながら聞くのは、テディ・ベアズ・フィーチャリング・イギー・ポップのパンクロックです。
「そうさ、僕はパンクロッカーさ。だって僕はパンクロッカーだから(Yeah, I’m a punk rocker. ‘Cause I’m a punk rocker)」
とても優しくて力強い映画だと思いました。こういう当たり前のメッセージ、優しさという当たり前のものがパンクになってしまう世の中というのも非常に残酷だと思いましたが、私も優しさというパンクを持って生きていきたいと思いました。
映像と演出の特徴「TikTok時代のエンターテインメント」
映画『スーパーマン』の映像と演出には、明確な「今っぽさ」があります。この映画を観て最初に驚くのは、凄まじいスピード感です。
開始数秒で膨大な情報量が提示され、そこから怒涛の展開で観客を映画世界へ引きずり込みます。スーパーマンの宿敵レックス・ルーサーがすでに大企業ルーサーコープの社長として君臨し、アメリカ政府に介入するほど権力を持っている。花園にいるメタヒューマン、ウルトラマン、エンジニアが、いきなりスーパーマンに襲いかかる。
普通の映画なら中盤ではないかと思うほどの展開が、冒頭で繰り広げられるのです。
高速カメラワークとワンカットアクション
語りも早ければ、カメラワークも早いのが今回の映画の特徴です。
出てくるメタヒューマンたちの動きが早いというのは当然ですが、そういったメタヒューマンたちのアクションを、本作はなるべくスムーズなワンカットで捉えようとしています。中にはワンアクション・ワンカットのシーンもあります。
大人数の会話シーンもカットを割らず、高速のパンで失速感を持たせないようにしています。
これはおそらく、ジェームズ・ガン監督が「ザ・スーサイド・スクワッド」の時に開発した「ナノ」というカメラリグを本作でも使用しているから表現できたのだと思います。
本作は「ゴッド&モンスターの世界」「スーパーマン・メタヒューマンたちのアクション」を見せるのに、今までの監督作以上にこのナノが生かされている——スピーディな映像感覚と手持ちカメラのような臨場感が、新時代のエンターテインメント作品を感じさせます。
導入も早いし、語りも早いし、カメラワークも早い。会話も早い——マシンガントークです。スーパーマンという題材に新時代のエンターテインメント作品を感じました。
まとめ:ジェームズ・ガン色が強すぎる?スーパーヒーロー映画の未来を占う、希望に満ちた一作
映画『スーパーマン 2025』は、DCユニバース刷新の第一作として、スーパーヒーロー映画というジャンル全体の未来を占う重要な作品となったと思います。「優しさこそがパンク(Kindness is punk rock)」は、これからのスーパーマンの本質であり神的な力と人間的な善の統合を真正面から問い直すものです。
ただ本作で気になったのが、ジェームズ・ガン特有のユーモアの挿入です。感情的な瞬間が、ガン特有のユーモアによって台無しにされてしまうこともあるのも事実です。感情が盛り上がる場面で、なぜそこでジョークを入れるのか——ガン監督は感情的な瞬間をそのまま受け止めさせることを恐れているのではないかと感じました。
また、クラーク・ケントの描写が薄いという点も気になりました。今回のスーパーマンは、クラーク・ケントとしての「隠れる努力」をあまりしていません。ブロッコリーヘアー(髪型)と眼鏡以外は、ほとんどスーパーマンそのもの。秘密のアイデンティティという要素が希薄になっているのは、好みが分かれるポイントでしょう。ガン監督にとって「クラーク・ケントはそれほど大きな役割ではない」という判断があったのかもしれません。
批判点はあるものの、この映画が持つメッセージ性と力強さは圧倒的でした。スーパーマンはナイーブでなければならないキャラクターであり物語なのです。全編で描かれる、スーパーマンが必死に人助けをする数々のシーンは迫力があると同時にスーパーマンですら必死さがありました。その姿が、私たちの心に、ほんの少しだけ希望の灯りを照らしてくれます。
映画『スーパーマン』は、単なる娯楽作品を超えて、人間の善への希望を描いた作品です。スーパーヒーロー映画市場において非常に重要な作品の1つに、ちゃんとやり遂げていると感じました。
スーパーマンという難しい要素、さらに言えば今この時代にスーパーヒーローを描くことの難しさ——そうした課題に対して、本作は全面的な回答を提示してくれました。申し分ない一作だったと思います。
そして本作が示した「優しさ」というテーマは、次回作『スーパーガール』にどう受け継がれていくのかジェームズ・ガンが構築する新たなDCユニバースの展開に、大きな期待が高まります。




