2001年から2003年にかけて世界中を魅了した『ロード・オブ・ザ・リング』三部作。あの圧倒的な映像美と壮大な物語世界で、ファンタジー映画の基準を塗り替えた伝説的シリーズの前日譚が、ついに映像化されました。それが本作『ホビット 思いがけない冒険』です。
J.R.R.トールキンが生み出した「中つ国」という架空世界を舞台に、『指輪物語』の60年前に起きた出来事を描く本作は、全3部作として構想されています。ピーター・ジャクソン監督が再びメガホンを取り、あの懐かしい中つ国の世界へと私たちを誘ってくれるのです。
『ロード・オブ・ザ・リング』という物語世界
映画「ホビット 思いがけない冒険」が始まり、画面に映し出されたホビット庄の風景を見た瞬間に筆者は2002~2004年の感動が蘇ってくるのを感じました。あの緑豊かな丘陵地帯、丸い扉のホビット穴、穏やかに流れる時間。『ロード・オブ・ザ・リング』で私たちが愛した世界が、確かにそこにありました。
本作の冒頭は、『旅の仲間』の直前に繋がる形で始まります。老いたビルボ(イアン・ホルム)がフロドのために自伝を書き始める場面から、60年前の若き日のビルボ(マーティン・フリーマン)の物語へと時間が遡ります。この導入部は見事で、新作でありながら前作との連続性を感じさせる演出に、ジャクソン監督の細やかな配慮が感じられました。
原作の「子供向け」トーンをどう処理したか
『ホビットの冒険』という原作小説は、『指輪物語』とは明らかに異なるトーンで書かれています。より軽快で、ユーモラスで、子供でも楽しめる冒険譚です。しかし、すでに『ロード・オブ・ザ・リング』という重厚なダークファンタジー三部作を作り上げたジャクソン監督が、今さら子供向けの軽い作品を作るわけにはいきません。
監督が選んだ解決策は見事なバランス感覚でした。ドワーフたちがビルボの家で食器を投げ合う陽気なシーンや、トロールとのコミカルなやり取りなど、原作の持つユーモアは残しながらも、全体としては『ロード・オブ・ザ・リング』と同じ世界観を保っています。特に、トーリンの一族の悲劇的な過去を描くフラッシュバックシーンは、本作に必要な重みと深みを与えていました。

- タイトル
- ホビットの冒険 上 (岩波少年文庫)
他作品との比較――『七人の侍』と『スター・ウォーズ』の影
本作の物語構造は、明らかに黒澤明監督の『七人の侍』に影響を受けています。村(この場合はドワーフの王国)を脅威から守るために、主人公が仲間を集めて旅に出る――この基本プロットは、『七人の侍』そのものです。
同時に、壮大な宇宙(この場合は中つ国)を舞台にした冒険活劇という点では、『スター・ウォーズ』との類似性も指摘できます。実際、『スター・ウォーズ』のジョージ・ルーカスがトールキンから大きな影響を受けていることは有名です。
本作は、ある意味で『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』と似た立場にあります。すでに完結した伝説的シリーズの前日譚を、どう描くか。ファンの期待にどう応えるか。そして、新たな世代の観客をどう惹きつけるか。
そして『ファントム・メナス』が賛否両論だったように、本作も評価が分かれるでしょう。
監督とキャストが紡ぐキャラクターの魅力
ビルボ・バギンズ役のマーティン・フリーマンは、まさに理想的なキャスティングだと思います。イライジャ・ウッドが演じたフロドが、どこか儚げで繊細な印象だったのに対し、フリーマンのビルボは、もっと地に足がついた、実務的な性格です。
冒険を嫌い、自宅の快適さを何よりも重視する一方で、心の奥底では冒険を渇望している――この二面性を、フリーマンは見事に演じ分けていました。特に印象的だったのは、ゴラムとの対峙後、彼を殺すチャンスがありながら哀れみの心から見逃すシーンです。このビルボの選択こそが、後の『指輪物語』全体を左右する重要な決断となるのです。そのことを知っている私たち観客にとって、このシーンは格別の意味を持ちます。
13人のドワーフをどう描き分けるか
映画「ホビット」本作の大きな挑戦の一つが、13人ものドワーフたちをいかに個性的に描き分けるかという点でした。原作でも、正直なところすべてのドワーフを明確に区別するのは困難です。しかし映画では、リーダーのトーリン・オーケンシールド(リチャード・アーミティッジ)を中心に、それぞれのドワーフに特徴的な外見や性格を与えることで、この問題を巧みに回避していました。
特にトーリンは、フロドが主人公におけるアラゴルンのような存在感を放っています。失われた王国の継承者として、誇り高く、時に頑固で、しかし仲間を守るためなら命を賭ける勇敢なリーダー。アーミティッジの演技は力強く、ドワーフという種族に新たな威厳を与えていました。
ただし、若干の「反則技」も使われています。トーリンはドワーフにしては異様にハンサムで、若いドワーフのキーリとフィーリも比較的整った顔立ちです。これは明らかに観客の感情移入を助けるための配慮でしょう。それでも、これだけ多くのキャラクターを169分という尺の中で描き分けた手腕は見事だと思います。
ゴラムとの「なぞなぞ対決」――本作最高のシーン
本作で最も印象的なシーンを一つ挙げるなら、間違いなくビルボとゴラムの「なぞなぞ対決」です。このシーンだけで、本作を観る価値があると断言できます。
暗闇の洞窟で、ビルボは奇妙な生き物ゴラムと出会います。アンディ・サーキスが再び演じるゴラムは、モーションキャプチャー技術の進化もあって、前作以上にリアルで表情豊かです。彼の狂気と哀しみ、そして時折見せる無邪気さが、見事に表現されていました。
特に素晴らしかったのは、ゴラムの心理描写です。彼は本当に「なぞなぞ遊び」がしたいのです。500年もの間、暗闇の中で指輪だけを相手に生きてきた孤独な存在。久しぶりに誰かと遊べることに、彼は子供のように喜んでいるのです。それが表情から、声のトーンから、仕草から伝わってきます。
そして、ビルボが彼を殺すチャンスを得ながらも、哀れみの心から見逃す瞬間。ここでハワード・ショアの音楽が、ホビット庄のテーマをそっと流します。この音楽的演出が、なぜガンダルフがホビットに希望を託したのかを雄弁に語るのです。言葉ではなく、表情と音楽だけで、『指輪物語』全体のテーマを凝縮したこのシーンは、まさに映画的な傑作と言えるでしょう。
キャストとスタッフの円熟
イアン・マッケランのガンダルフは、やはり素晴らしいの一言です。10年の時を経ても、彼はガンダルフそのものでした。優しく、賢く、そして時に恐ろしいほど強力な魔法使い。マッケランの存在感が、画面全体に安定感をもたらしています。
リチャード・アーミティッジのトーリンも印象的でした。誇り高く、頑固で、しかし仲間思い。失われた王国を取り戻そうとする彼の執念と悲哀が、アーミティッジの演技から滲み出ています。
そして何より、ハワード・ショアの音楽です。『ロード・オブ・ザ・リング』で使われたテーマ曲が、適切な場面でそっと流れる瞬間の感動は、言葉では表現しきれません。新たに作曲されたドワーフたちの歌「遠い山の歌」も、哀愁を帯びた美しいメロディーで、彼らの望郷の念を見事に表現していました。
美術面でも、『ロード・オブ・ザ・リング』の水準が完全に維持されています。ホビット庄、裂け谷、ゴブリンの洞窟――どのセットも、細部まで作り込まれた説得力があります。特にゴブリンタウンのデザインは、気持ち悪さと同時に奇妙な美しさを兼ね備えていました。

映像革新と技術への挑戦
映画「ホビット」は『ロード・オブ・ザ・リング』と比べて、明らかにCGIへの依存度が高いという点です。前作では、できる限り実物の造形物や特殊メイクを使い、それによって圧倒的なリアリティを獲得していました。
しかし本作では、ゴブリンやワーグ(オークが乗る狼)、そしてアゾグといった敵キャラクターの多くが、完全にCGIで作られています。ゴラムのようにモーションキャプチャーを使った高品質なCGIは素晴らしいのですが、一部のCGIはやや粗く感じられる瞬間もありました。
これは、3部作という長期プロジェクトゆえの時間的制約と、HFRという新技術への対応が影響しているのかもしれません。今後の2作品で、この点が改善されることを期待したいと思います。
ペーシングの問題――最初の1時間が試練
本作の最大の弱点は、間違いなくペーシングでしょう。特に最初の1時間から90分は、正直なところ退屈に感じる瞬間がありました。ドワーフたちがビルボの家に集まり、食事をし、歌を歌い、そしてようやく旅立つ――このプロセスが、やや冗長に感じられるのです。
もちろん、これは意図的な選択です。ジャクソン監督は、キャラクターたちの関係性や動機をじっくりと描きたかったのでしょう。また、『ロード・オブ・ザ・リング』の拡張版を愛するファンにとっては、この「じっくり感」こそが魅力なのかもしれません。
しかし、原作の『ホビットの冒険』は比較的短い物語(小説で上下巻)です。それを3部作、合計9時間近い上映時間に引き延ばすという決定には、やはり賛否があります。本作だけで見ても、おそらく30分ほどカットできるシーンはあったはずです。例えば、岩の巨人たちが戦うシーンは、確かに壮観ですが、物語の進行にそれほど寄与していません。
とはいえ、後半の45分間は圧巻です。一度物語が加速し始めると、もう止まりません。ゴブリンの洞窟、ゴラムとの対峙、そしてクライマックスの戦い――これらのシーンは、『ロード・オブ・ザ・リング』の最高のアクションシーンに匹敵します。
まとめ:小さな者が紡ぐ、大いなる物語の始まり
『ホビット 思いがけない冒険』は、ペーシングの問題、一部のCGIの粗さ、そして3部作への引き延ばしという商業的判断など残念な点は確かにあります。
しかし、それでもなお、本作は素晴らしいエンターテインメントであり、中つ国への愛に満ちた作品です。マーティン・フリーマンのビルボは魅力的で、アンディ・サーキスのゴラムは相変わらず圧巻。アクションシーンはスリリングで、音楽は心を揺さぶります。そして何より、あの懐かしい中つ国の世界に再び浸れる喜びは、何物にも代えがたいものです。
『ホビット』3部作がどのように完結するのか、今から楽しみでなりません。しかし、この第1作だけでも、十分に観る価値のある作品です。『ロード・オブ・ザ・リング』を愛したすべての人に、そしてまだ中つ国を訪れたことのないすべての人に、本作をお勧めします。





