2001年の『ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間』から数えて13年。ピーター・ジャクソン監督が描き続けてきた「中つ国」の物語が、ついに終幕を迎えました。J.R.R.トールキンが緻密に作り上げた神話的世界観を、映像という形で見事に具現化してきたこのシリーズは、まさに映画史に残る偉業と言えるでしょう。
本作『ホビット 決戦のゆくえ』は、三部作の最終章であると同時に、『ロード・オブ・ザ・リング』へと繋がる重要な橋渡しの役割も担っている作品です。
原作との関係性──トールキンの世界をどう映像化したか
原作小説『ホビットの冒険』は1937年に出版された児童文学です。しかし、トールキン自身が後年、この物語を『指輪物語』を中心とした、よりシリアスで大人向けの世界観の一部として語り直そうとした経緯があります。

- タイトル
- ホビットの冒険 上 (岩波少年文庫)
ピーター・ジャクソン監督が採ったアプローチは、原作小説の本歌取りした子ども向けのトーンに忠実な映画化ではなく、むしろ『ロード・オブ・ザ・リング』三部作と完全に地続きの世界として描くことでした。これは、映画版「中つ国シリーズ」として物語世界全体を立体的に浮かび上がらせる試みであり、実は原作者トールキンが意図していたものに近いとも言えます。
原作の『ホビットの冒険』では、今回のタイトルになっている「五軍の戦い(The Battle of the Five Armies)」の描写は非常に短く、しかも主人公ビルボは大半を気絶して過ごしています。映画では、この戦いを大幅に膨らませ、様々なキャラクターの視点から描くことで、壮大なクライマックスへと昇華させています。
また、原作には登場しないレゴラスや、映画オリジナルのキャラクターであるタウリエルなどが加わることで、『指輪物語』との繋がりがより強固なものになっています。特に、「追補編」や「終わらざりし物語」といったトールキンの他の著作から拾われた設定──例えば、ドル・グルドゥアでのガンダルフと死霊術師(サウロン)との対決なども織り込まれており、トールキン世界のより深い理解を促す作りになっているのです。
全編がクライマックス──アクションの饗宴
本作の最大の特徴は、その圧倒的なアクション密度でしょう。前作『竜に奪われた王国』が中途半端なところで終わったことへの批判を意識したのか、今回は息つく暇もないほどのアクションシーンが連続します。
オープニングのスマウグ襲撃シーンは、まさに怪獣映画の傑作と呼べる出来栄えです。ベネディクト・カンバーバッチが声を演じる竜の威圧感、炎に包まれるレイクタウンの絶望的な光景、そしてバルド(ルーク・エヴァンス)の決死の戦い。この冒頭15分だけで、一本の映画を観たかのような満足感がありました。
そして、メインとなる「五軍の戦い」。エルフ、ドワーフ、人間、そしてオークの大軍が激突する壮大なバトルシーンは、ピーター・ジャクソンのアクション演出の集大成と呼べるものです。特に印象的だったのは、エルフの兵士たちがドワーフの盾の上を飛び越えて突撃するシーン。これは明らかに黒澤明監督へのオマージュであり、時代劇的な様式美と現代的なアクション演出が見事に融合していました。
また、クライマックスの一騎打ちシーンも見応えがあります。トーリン対アゾグ、レゴラス対ボルグという二つの因縁の対決が同時並行で描かれ、それぞれに物語的な決着がついていく構成は巧みでした。特に、トーリンが氷の上でアゾグに一撃を加える瞬間は、彼の贖罪の物語としても機能しており、単なるアクションを超えた感動がありました。
実質のW主人公が織りなす堕落と贖罪の物語
本作の真の魅力は、ビルボ・バギンズとトーリン・オーケンシールドという対照的な二人の主人公が織りなす、深い人間ドラマにあります。
ビルボ・バギンズ──物語の「心」を体現する存在
このシリーズを通して、最も賞賛すべきキャスティングは、間違いなくマーティン・フリーマンのビルボ・バギンズでしょう。彼の飄々とした佇まい、時折見せる鋭い眼光、そして戦闘時の身のこなしまで、まさにビルボそのものです。
ビルボは、この壮大な冒険の中で唯一、権力や財宝に目が眩まない存在として描かれます。彼が大切にするのは、仲間との絆であり、正しいことをするという信念です。アーケン石を隠し持ち、戦争を回避しようとする彼の行動は、小さな存在でも大きな決断ができることを示しています。
特に印象的だったのは、ビルボとトーリンの関係性です。財宝に執着し狂気に蝕まれていくトーリンを、ビルボは静かに、しかし確固たる意志を持って諌めます。この二人の間に流れる複雑な感情──友情、失望、そして最終的な和解──を、フリーマンは繊細に演じ分けていました。
また、終盤でガンダルフと語り合うシーンも素晴らしかったです。ガンダルフがパイプをふかしながらビルボを見つめる眼差しには、深い愛情が感じられました。なぜガンダルフがビルボをこれほど気に入っているのか、観ている私たちにもよく分かります。なぜなら、私たちもビルボが大好きだからです。
トーリン・オーケンシールド──権力に堕ちた王の悲劇

対するトーリン・オーケンシールド(リチャード・アーミティッジ)は、本作のもう一つの重要なテーマである「権力や富による人間性の腐敗」を体現するキャラクターです。
彼は、エレボールを取り戻し、山のような財宝を手にした瞬間から変わってしまいます。黄金に埋もれ、疑心暗鬼に陥り、仲間さえも信じられなくなっていくトーリンの姿は、『ロード・オブ・ザ・リング』におけるゴラムや、さらには一つの指輪に魅入られた者たちと重なります。
この「堕落と贖罪」のテーマは、トールキン作品を貫く普遍的なモチーフであり、ジャクソン監督はこれを丁寧に描いています。トーリンの狂気は、単なる悪への転落ではありません。それは、故郷を取り戻したいという正当な願いが、いつしか財宝への執着へと歪んでいく過程なのです。
トーリンが最終的に正気を取り戻し、仲間たちと共に戦う決意をするシーンは、本作のハイライトの一つです。そして、彼が死の間際にビルボに語る言葉──「もし人々がお前のような生き方をもっとできたなら、この世界は幸せな場所になるだろう」──は、この6部作全体のテーマを集約したものと言えるでしょう。
対照的な二人が照らし出すもの
ビルボとトーリン。この二人の対比は見事です。権力や富に執着せず、人間らしさを保ち続けるホビットと、王としての誇りと財宝への執着の間で苦悩し、最終的に人間性を取り戻すドワーフ。この二人の物語が交差することで、本作は単なるアクション大作を超えた、深みのある人間ドラマとなっているのです。
二人の最後の会話シーンは、涙なしには観られません。瀕死のトーリンがビルボの手を握り、自らの過ちを認め、友情への感謝を述べる。このシーンがあるからこそ、私たちは13年間の旅路に一つの区切りをつけることができるのです。
バランスを欠いた物語展開
映画『ホビット 決戦のゆくえ』は看過できない構成上の問題点が複数存在する印象です。圧倒的なアクションと感動的なドラマを持ちながらも、物語全体のバランスや説明不足が目立ち、作品の完成度を損なっているのです。

3部作である必要性への根本的疑問
まず指摘せざるを得ないのが、「この物語は本当に3部作である必要があったのか?」という根本的な疑問です。
元々、『ホビットの冒険』は『指輪物語』に比べて遥かに短い物語です。当初、ギレルモ・デル・トロ監督のもとで2部作として企画されていたことを考えると、やはり3部作への拡大は商業的な判断だったのではないかと思わざるを得ません。
実際、本作を観ていると、「これは前作『竜に奪われた王国』の後半部分ではないか?」と感じる瞬間が多々ありました。前作が中途半端なところで終わり、今回がその続きから始まるという構成は、明らかに一本の映画を二つに分けたように見えます。前作のラストでスマウグがレイクタウンに向かうシーンで終わり、今作の冒頭でその襲撃が描かれる──この分断は不自然であり、本来は一続きの物語として描かれるべきだったでしょう。
もし2部作だったら、第1作で仲間集めと冒険の旅を描き、第2作でスマウグとの対決から五軍の戦いまでを一気に描くことができたはずです。そうすれば、もっとバランスの取れた物語になったのではないでしょうか。
映画オリジナル要素の功罪
本作では、原作にない要素が多く追加されています。その中でも最も賛否が分かれるのが、タウリエル(エヴァンジェリン・リリー)とキーリ(エイダン・ターナー)のロマンスでしょう。

エルフとドワーフという異種族間の恋愛という設定自体は興味深いのですが、描写が中途半端で、物語全体の流れを妨げているように感じられました。特に、このロマンスのために割かれた時間が、他のキャラクター。それは例えば13人のドワーフたちの掘り下げを犠牲にしているように思えたのは残念でした。原作では重要な役割を果たすドワーフたちの多くが、映画では名前すら覚えられないまま終わってしまいます。
また、レゴラス(オーランド・ブルーム)の超人的なアクションも賛否両論でしょう。崩れ落ちる石段を駆け上がるシーンなどは、もはや物理法則を完全に無視しており、CGIの過剰使用による「軽さ」を感じさせてしまいました。原作にはないキャラクターを登場させるのであれば、もっと物語に必然性のある形で組み込むべきだったのではないでしょうか。
一方で、成功したオリジナル要素もあります。「白の会議」のシーンは素晴らしかったです。ガンダルフ、サルマン(クリストファー・リー)、ガラドリエル(ケイト・ブランシェット)、エルロンド(ヒューゴ・ウィーヴィング)が、ドル・グルドゥアでサウロンと対峙するこのシーンは、『ロード・オブ・ザ・リング』との繋がりを強く感じさせる重要な場面でした。特に、ガラドリエルが本気を出す瞬間は圧巻で、「指輪を持つ者の恐ろしさ」を垣間見せてくれました。
説明不足な展開と急ぎ足感
本作には、物語の「急ぎ足感」と「説明不足」という問題も顕著です。144分という比較的短い上映時間(このシリーズにしては)に収めるために、多くの重要なシーンがカットされたと思われます。
例えば、五軍の戦いが終わった後、レイクタウンの人々とドワーフたちの賠償問題がどう解決されたのか、映画では全く説明がありません。原作ではこの点についてきちんと描写があるのですが、映画ではバッサリとカットされています。そのため、突然レイクタウンの人々がトーリンの葬儀に参列しているシーンを見ても、「あれ、あの対立はどうなったの?」と混乱してしまいます。
また、スランドゥイル(リー・ペイス)のキャラクター描写も首を傾げざるを得ません。前作まで非常に冷酷で利己的だった彼が、今作では突然タウリエルに涙ながらに諭すシーンがあります。しかし、この心境の変化を説明するシーンが一切ないため、キャラクターの行動に一貫性が感じられないのです。数時間前まで冷徹だった人物が、いきなり感情的になる──この唐突さは、明らかに説明不足です。
さらに、戦いの後の処理も駆け足です。トーリンの葬儀はほとんど描かれず、ドワーフたちの喪失感も十分に表現されません。あれだけの犠牲を払った戦いの余韻が、もっと丁寧に描かれるべきだったと思います。
音楽という魔法──ハワード・ショアの功績
本作を語る上で忘れてはならないのが、ハワード・ショアによる音楽です。
このシリーズを通して、ショアは中つ国の各地域、各種族、各キャラクターに固有のテーマ音楽を与えてきました。それらのテーマが、物語の重要な瞬間に流れることで、私たちは瞬時にその場面の意味を理解し、感情を揺さぶられるのです。
例えば、ビルボとゴラムの場面で流れる「ホビット庄のテーマ」。レゴラスが北へ向かう決意をする場面での「旅の仲間のテーマ」。そして、トーリンが最期を迎える場面での、悲壮で美しいメロディ。
これらの音楽は、単なるBGMではありません。それは物語そのものを紡ぐ、重要な語り手なのです。ショアの音楽なくして、この6部作の感動は成立し得なかったでしょう。
特に今作では、アクションシーンにおける音楽の使い方が秀逸でした。戦闘が激しくなればなるほど、音楽も壮大になり、観る者の感情を最高潮へと導いていきます。これこそが、映画音楽の理想的な在り方と言えるでしょう。
ピーター・ジャクソンという映画作家の功績と課題
ピーター・ジャクソンは、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作によって、ファンタジー映画の世界を根底から変えました。彼以前と以後では、ファンタジー映画の作り方が全く異なると言っても過言ではありません。
しかし、『ホビット』三部作を観て感じるのは、ジャクソンが「中つ国」という世界に少々囚われすぎているのではないか、ということです。彼の初期作品──『バッド・テイスト』『ブレインデッド』『乙女の祈り』──には、リスクを恐れない実験精神と、既成概念を打ち破る大胆さがありました。
『ホビット』三部作は、確かに技術的には素晴らしい作品です。しかし、そこには「安全策」を取っているような印象も受けます。もっと大胆に、もっと冒険的に作ることもできたのではないでしょうか。
今後、ジャクソンには是非、中つ国を離れた新しい挑戦をしてほしいと思います。彼の才能は、ファンタジーだけに留まるものではないはずです。
まとめ:旅の終わりに見えたもの
『ホビット 決戦のゆくえ』は、正直いまいちな印象でした。3部作にする必要性への疑問、物語のバランスの悪さ、CGIへの過度な依存、説明不足な展開など、指摘すべき欠点は確かに存在します。
しかし、それでもなお、この作品には観るべき価値があります。マーティン・フリーマンとリチャード・アーミティッジによる感動的なW主人公の物語、圧倒的なアクションシーン、ハワード・ショアの美しい音楽、そして何より、13年間にわたる壮大な物語の完結という、映画史に残る偉業の一部であるということ。
2001年、『旅の仲間』を初めて観た時の興奮を、私は今でも鮮明に覚えています。あの時から13年。私たちはビルボやフロドと共に、長い長い旅をしてきました。そして今、その旅が終わりを迎えようとしています。
この作品を、そして『ロード・オブ・ザ・リング』と『ホビット』全6作品を愛するすべての方々に、心からの感謝を。そして、ピーター・ジャクソンと彼のチームに、13年間の偉業への敬意を。





