映画『ウィキッド ふたりの魔女』は、ほとんど全ての楽曲が「明るい調子で歌われながら、その裏に恐ろしい暗黒面を隠している」という二重構造を持っているのが特徴です。
冒頭の「No One Mourns the Wicked(誰も悪い魔女を悼まない)」は、一人の人間の死を国中で祝福するという、よく考えれば恐ろしい光景です。「Dancing Through Life(人生踊り明かせ)」は、楽しげなダンスナンバーでありながら、反知性主義と同調圧力の恐ろしさを描いています。図書館で本を平気で踏みつけ、投げつける若者たちの知性を軽んじる姿勢が、いかに危険な思想と結びつくかを、このシーンは雄弁に語ります。
アリアナ・グランデ演じるグリンダが、エルファバを「人気者」に変身させようと奮闘するこの楽しいナンバーは、後に彼女自身が「人気だけがある政治的存在」になってしまう皮肉な伏線でもあるのです。
音楽という形式だからこそ、これらの複雑なニュアンスが一つの調和したメロディとして成立します。明と暗、愛と呪い、祝福と悲劇の全てが同時に響き合う。これこそが、ミュージカルという芸術形式が持つ唯一無二の力なのです。
4つのステップで作り替えられ、2024年の映画公開に至った物語
映画『ウィキッド ふたりの魔女』は、実に4段階のアダプテーションを経て完成しました。
- ライマン・フランク・ボームの児童小説『オズの魔法使い』(1900年)
- ちなみに主人公エルファバの名前は、作者の頭文字「L.F.B.」から取られています。
- ジュディ・ガーランド主演の映画『オズの魔法使』(1939年)
- この映画化によって、『オズの魔法使い』は大衆文化の古典となりました。ただし、この作品の製作背景には当時の映画界の非人道的な体質が影を落としています。
- 楽天Books ウィキッド 上 誰も知らない、もう一つのオズの物語 ハヤカワ文庫NV(1995年)
- 「悪役」とされた魔女の視点から物語を語り直すという革新的なアプローチ。日本で言えば「桃太郎を鬼の視点から描く」ような試みです。
- ブロードウェイミュージカル『Wicked』(2003年)
- 小説を大幅にアレンジし、エルファバとグリンダの友情を中心に据えたミュージカル版。作曲はスティーヴン・シュワルツ、脚本はウィニー・ホルツマン。
そして今回の映画版は、これら全ての要素を受け継ぎながら、さらに映画ならではの表現技術を駆使して完成度を極限まで高めた決定版と言えます。こういった時代を重ねるたびに、元々あったテーマ的メッセージの深みが研ぎ澄まされ、豊かさを増してきたのです。
ジョン・M・チュウ監督のミュージカル映画への革新と多様性の力
本作を監督したジョン・M・チュウは、『イン・ザ・ハイツ』(2021年) でリン=マニュエル・ミランダの傑作ミュージカルを映画化し多様性への深い敬意と、ミュージカルという形式への確かな理解が高く評価されました監督です。
そして今回の映画『ウィキッド ふたりの魔女』で、チュウ監督が成し遂げた最大の革新は「主演二人がメインで歌うシーンは、撮影と歌の録音を同時に行った」という点です。通常、映画のミュージカルシーンでは事前に録音した音源に合わせて口パクで演技するのが一般的ですが、本作では実際に歌いながら撮影しています。
特に驚異的なのは、クライマックスのシーン。シンシア・エリヴォ演じるエルファバは、ワイヤーで吊られ、激しく振り回されながら歌っているのです。地面に足をつけて大きな声を出すのとは全く異なる能力を要求されるこの撮影で、彼女は圧倒的な歌唱力を発揮しました。これは文字通り「超人的」としか言いようがありません。
また、撮影には実際のセットが多用されました。CGに頼りすぎず、俳優たちが実際に触れ、動ける空間を作ることで、現場に「生っぽさ」が生まれます。この熱量こそが、本作を他のミュージカル映画と一線を画す要因となっています。
多様性が生み出す普遍的なメッセージ
ジョン・M・チュウ監督作品の特徴である「徹底した多様性重視のキャスティング」は、本作でも見事に機能しています。オズの国の住人たちは、人種・民族・年齢・ジェンダー・障害の有無など、あらゆる面で多様です。
しかし重要なのは、これほど多様性が達成されている世界だからこそ、それでもなお「他者」として存在する動物たちや、唯一緑の肌を持つエルファバに対する差別や偏見が、より普遍的な問題として観客に突きつけられるという点です。
差別や偏見は、特定の時代や特定の人々だけの問題ではありません。どれほど進歩的に見える社会にも、必ず「排除される者」が存在します。そして驚くべきことに、ある面では抑圧される側だった人が、別の面では抑圧する側に回ることもあります。これを「インターセクショナリティ(交差性)」と呼びます。
エルファバ自身も、作中で金髪のグリンダを「おバカ」呼ばわりするシーンがあります。差別されてきた彼女の中にも、無意識のステレオタイプが刷り込まれているのです。このように、本作は人間の複雑さを一面的に描くことなく、重層的に表現しています。
絢爛豪華な映像美が包み込む悲劇的構造
映画『ウィキッド ふたりの魔女』の最も心を打つ要素の一つは、「誰かの愛の行動が、結果として呪いとなって振りかかる」という悲劇的構造です。しかしこの悲劇性とは対照的に、本作の画づくりは息を呑むほど美しく、まばゆいばかりの色彩に満ちています。
オズの国は、輝きに包まれた幻想的な世界として描かれます。シズ大学の校舎は細部まで作り込まれた壮麗な建築で、ステンドグラスからは色とりどりの光が差し込みます。図書館の回転する書架、ダンスホールの華やかな装飾、そしてエメラルドシティの眩い煌めきの全てが夢のような美しさです。

学生たちが身につける制服にも、驚くべきこだわりが見られます。シズ大学の制服は、ブルーを基調としながらも、一人一人の個性を反映した微妙なバリエーションが施されています。襟の形、ボタンの配置、スカーフやネクタイの結び方まで細部に至るまで丁寧にデザインされ、それぞれの学生のキャラクター性を視覚的に表現しているのです。

特に目を引くのは、グリンダのファッションです。ピンクを基調とした彼女の衣装は、まるでおとぎ話から抜け出してきたかのような愛らしさ。ふわふわのドレスには繊細なレースやビーズの装飾が施され、リボン、宝石で飾られた小物までその一つ一つが丁寧にデザインされ、彼女のキャラクター性を視覚的に表現しています。授業に着ていくカジュアルな装いでさえ、ピンクのカーディガンに真珠のネックレス、完璧にセットされた金髪と、徹底的に「グリンダらしさ」が貫かれています。
一方、エルファバの衣装は黒を基調としながらも、緑の肌との対比で独特の美しさを放ちます。シンプルながら機能的なデザインは、彼女の実直な性格を表現しています。学生服も他の生徒たちと同じブルーですが、どこか控えめで地味な印象を与えるように、細部が調整されているのです。
この「美しすぎる世界観」が、物語の悲劇性をより際立たせる効果を生んでいます。こんなにも美しい世界で、こんなにも華やかな衣装に身を包んでいるのに、そこには深い孤独と悲しみが潜んでいる――この対比こそが、観客の心を強く揺さぶるのです。
象徴的なのは、クライマックス直前のシーンです。オズの権力に反旗を翻し、国外へ逃亡しようとするエルファバを、グリンダは涙ながらに見送ります。寒そうに震える友人を見て、グリンダは黒いマントを見つけ、エルファバに着せてあげます。二人は泣きながらも、笑い合います。
これは紛れもなく愛の行動です。美しい友情の瞬間です。しかし同時に、この黒いマントこそが、後に人々の間で「邪悪な魔女」のアイコンとなる衣装の完成の瞬間でもあるのです。グリンダの優しさが、結果的にエルファバを「悪い魔女」として固定化させてしまう――この皮肉な構造が、物語全体に通底しています。
第二部では、さらにこの構造が深まります。ある人物がある人物を好きなあまりに取った行動が、取り返しのつかない悲劇を招くのです。愛と呪いは表裏一体。美しいほどに悲劇的で、悲劇的なほどに美しい。それがこの物語の本質であり、その本質は絢爛豪華な映像によってより強く胸に刻まれるのです。
シンシア・エリヴォ演じるエルファバの「歌という超能力」
主演のシンシア・エリヴォが演じるエルファバは、本作で文字通り「超人」としての能力を発揮しています。彼女が演じるエルファバは、生まれながらに持つ魔法の力を長らく封じ込めてきましたが、クライマックスでついにその真の力を解放します。
そしてその瞬間、私たち観客は「歌という超能力」を目撃するのです。
ワイヤーで吊られ、激しく振り回されながらも、彼女は圧倒的な声量で歌い続けます。元々ブロードウェイ版を演じたイディナ・メンゼルが出せる音域に合わせて高く設定された最後の音――通常では出せないような高音を、エリヴォは完璧に歌い上げます。
この「通常では出せない声」を出すという行為自体が、エルファバが真の力を発揮する瞬間を象徴しているのです。映画という形式と、ミュージカルという形式が、ここで完全に一体化します。
アリアナ・グランデ演じるグリンダの複雑な魅力
一方、アリアナ・グランデが演じるグリンダは、当初予想されていた以上に複雑で魅力的なキャラクターとして描かれています。
表面的には、金髪でピンクに彩られた典型的な「人気者のお姫様」。しかし彼女は決して単純な「いい子」ではありません。周囲の期待に応えるために演じている自分と、本当の自分との間で葛藤しています。
グリンダの魅力は、その「チャーム(愛嬌)」にあります。もし同じ役をもっと長身でモデル体型の女優が演じていたら、単に嫌味なキャラクターに見えたかもしれません。しかしアリアナ・グランデの小柄で愛らしい外見と、ちょこまかと動き回るコミカルな演技が、グリンダに親しみやすさを与えています。
特に「Popular」のシーンは圧巻です。ベッドの上でぴょんと跳ねたり、ベランダにピンと乗っかったりその愛らしさに観客は笑い、魅了されます。しかし同時に、このシーンは後に彼女が「人気だけがある政治的存在」になってしまうことを暗示しているのです。
ラスト17分間の奇跡 -「Defying Gravity」の圧倒的カタルシス
そして全てが集約されるのが、クライマックスの「Defying Gravity(重力に逆らって)」のシークエンスです。このシーンは、元のミュージカル版では5~6分程度ですが、映画版では実に17分間にわたって展開されます。
友情と決別の重層性
シーンは「I hope you’re happy(満足した?)」という言葉から始まります。オズの権力側に誘われたにもかかわらず、それを拒否したエルファバに対し、グリンダが放つ皮肉です。「あなたはこれで満足なの?」と。
しかし同じ「I hope you’re happy」という言葉が、シーンの最後では全く異なる意味で響きます。「あなたが幸せでありますように」――愛おしい友への、切ない別れの言葉として。
この歌詞の二重性こそが、音楽という形式の真骨頂です。
映画ならではの縦空間の使い方
グリンダを救うため、「追っているのは私でしょう!」と叫び、窓の外へ飛び出すエルファバ。ここから映画版オリジナルの圧巻のシークエンスが始まります。
真っ逆さまに落下するエルファバ。その長い長い落下の中で、彼女の人生で投げかけられてきた無数の否定的な言葉――「緑の化け物」「出来損ない」「悪魔の子」――がこだまします。
これらは文字通り、彼女を「地に貶めようとしてきた重力のごとき呪いの言葉」です。しかしその落下の最中、エルファバの目に映ったものは――自分の過去、妹との思い出、そしてグリンダとの友情でした。
この「エルファバの主観」で見せる演出は、完全に映画ならではです。舞台では決してできない表現方法で、彼女が「自分の人生を肯定する瞬間」を描き出します。
そして、落下が反転します。下へ向かっていたものが、上へ――飛翔へと変わる瞬間。縦空間を大胆に使ったこの演出は、文字通り「重力から解き放たれる」という感覚を、観客に体験させるのです。
最後のシャウト 歌という超能力の極致
そして圧倒される人々の顔。花火のような派手な映像演出。一拍の間を置いて――
シンシア・エリヴォの、圧倒的なシャウトが響き渡ります。
ワイヤーで吊られた状態で、これほどの声量を出すことがどれほど困難か。彼女は文字通り「歌という超能力」を、私たちの目の前で発揮するのです。
そしてエルファバが飛び立つ瞬間、再び「Unlimited」のメロディが重なります。さらに「I hope you’re happy(幸せでいてね)」というグリンダの切ない祈りと、「魔女を捕らえろ!」という民衆の叫びが、同時に響き渡ります。
友情と憎しみ、理解と無理解、美しいものと醜いもの――世界の全ての混沌が一体となり、音楽の渦となって高まり、最高潮に達したところで――
バン! 「Part 2 へ続く」
この瞬間、劇場にいる全員が立ち上がって拍手したくなる衝動に駆られます。ミュージカルという形式と、映画という形式が完全に融合し、そのカタルシスがエクスタシーに達した瞬間。
これはまさに、ミュージカル映画史における一つの到達点と言えるでしょう。
まとめ:愛と呪いが交差する、ミュージカル映画史の金字塔
映画『ウィキッド ふたりの魔女』は、ブロードウェイの名作を、映画という形式で最高度にブラッシュアップした傑作でした。
長年積み重ねられてきた4段階のアダプテーションの果てに、ついに到達したこの作品。差別や偏見という人類史の暗黒を真正面から描きながら、それを圧倒的なエンターテインメントとして昇華させた手腕は見事というほかありません。
シンシア・エリヴォとアリアナ・グランデという、これ以上ないキャスティング。ジョン・M・チュウ監督の映像センスと多様性への敬意。そして何より、ミュージカルという形式でしか表現できない感情の重層性――全てが完璧に融合しています。
特にラスト17分間の「Defying Gravity」は、おそらく今後何年も語り継がれるであろう、ミュージカル映画史に残る名シーンです。愛が呪いとなり、呪いが愛となる。美しいほどに悲劇的で、悲劇的なほどに美しい世界の全てが、音楽という形で一つに溶け合う奇跡の瞬間がありました。
パート2の公開まで、このシーンを何度も思い返すことになるでしょう。そしてきっと、あなたも「Unlimited」のメロディを口ずさみながら、涙が止まらなくなるはずです。





