映画『グラスホッパー』は、恋人を失った悲しみから復讐を決意し、裏社会に足を踏み入れる元教師・鈴木を主人公に据えた物語です。
社会の闇に蠢く組織や、さまざまな事情を抱えた殺し屋たちが複雑に絡み合い、それぞれの思惑が交錯する中で物語は展開します。
しかしながら伊坂幸太郎さんの原作の構築した不思議な殺し屋ワールドが立っておらず、薄っぺらいサスペンスドラマになってしまっているという意見も多々ある作品でした。
原作はうねる群像劇とそれぞれの“殺し”に内在する奇妙な魅力
映画「グラスホッパー」は伊坂幸太郎さんが2004年に角川書店から出版されました。著者自身が「今まで書いた小説のなかで一番達成感があった」と語るほど、思い入れの深い作品です。角川文庫から文庫版が出版されており、直木三十五賞の候補にも選ばれています。

- タイトル
- 小説「グラスホッパー (角川文庫) 」
作品は小説にとどまらず漫画もあります。

- タイトル
- 「グラスホッパー(カドカワデジタルコミックス) 」伊坂 幸太郎 (著), 井田 ヒロト (著)
物語は、鈴木、鯨、蝉という3人の視点で描かれます。それぞれ異なる動機で、”押し屋”と呼ばれる謎の殺し屋を追うという構成です。複数の物語が並行して進む群像劇であり、時系列が複雑に絡み合いながら、最後に一つに収束する爽快感が魅力です。
この作品の大きな魅力は、その独特な世界観とキャラクターにあります。
- ストーリーが緻密に練られており、複数の物語が読み手の焦らしつつも澱みなく流れ、合流するやいなや一気に加速して結末を迎えます。
- 心地よいスピード感は、まるで飛び跳ねるバッタのように物語を一気に駆け抜けるようです。
- キャラクターの一人ひとりが丁寧に描かれており、危うさを持ちながらも、どこか愛おしく、決して嫌いになれない魅力に溢れています。
物語を彩る豪華キャストと個性的なキャラクター
映画『グラスホッパー』の最大の魅力は、伊坂幸太郎氏の小説を原作とするスリリングなストーリー、そして豪華キャストが演じる個性豊かなキャラクターたちです。特に、復讐に燃える元教師・鈴木、死を操る“自殺屋”の鯨、予測不能な“ナイフ使い”の蝉が織りなす人間模様は、単なる善悪では割り切れない、リアルな世界観を構築しています。
まだこの映画を未見の方へ向けて、今回は物語を動かす3人の主要人物に焦点を当て、その人物像を紐解いていきます。

鈴木:観客の”感情の代弁者”
恋人の命を奪われた悲しみから、復讐を決意する元教師・鈴木。彼は裏社会とは無縁のごく普通の人間として、突如として闇の世界に巻き込まれていきます。映画は鈴木の視点を通して物語を追体験することになります。恐怖や葛藤をあらわにする彼の姿は、観る人々の共感を呼び、物語の重苦しい雰囲気の中で唯一、感情移入できる存在です。
鯨:死を操る“自殺屋”
死を操る殺し屋が鯨です。相手に幻覚を見せ、自らの手で命を絶たせるその能力は、底知れぬ恐怖と緊張感を観客に与え、物語全体を支配します。 一見すると現実離れしたキャラクターですが、彼自身の過去や内面が少しずつ明らかになるにつれて、ただの悪役ではない、人間的な側面が見えてくるのも彼の奥深い魅力の一つです。
蝉:予測不能な“ナイフ使い”
ナイフを巧みに操る殺し屋、蝉。彼はフットワークが軽く、常に飄々としています。相棒とのユーモラスなやり取りは、物語の張り詰めた空気を和らげる清涼剤のような役割を果たします。 しかし、ひとたび戦闘モードに入ると、その軽快さからは想像もつかないような凶暴性を発揮します。この二面性こそが、彼の計り知れない魅力を生み出し、観客を惹きつけてやみません。
『グラスホッパー』は、鈴木の目線で復讐の旅を追体験し、鯨の不気味さに震え、蝉の狂気に魅了される、そんな唯一無二の体験を与えてくれます。この3人の運命が複雑に絡み合い、それぞれの思惑が交錯する先に待つ結末とは何なのか?
映画と原作の比較:脚本に難あり
伊坂幸太郎の傑作小説を原作とした映画『グラスホッパー』は、原作ファンにとって見逃せない作品でしょう。筆者は原作をまだ未読なのでレビューアーの意見をまとめると原作小説では登場人物の内面的な葛藤や心理が詳細に描かれており、読者は文字を通して彼らの感情の機微を深く感じ取れるようです。
監督は、原作の独特な世界観を尊重しつつも、映画ならではのアプローチで物語を再構築したようです。原作を読んだ人も、未読の人も、それぞれの違いを比較することで、作品の新たな魅力と奥深さを発見できるかもしれません。「原作ファンとして大満足」「キャストの演技に引き込まれた」といった称賛の声がある一方で、「ストーリー展開が物足りない」「登場人物の背景描写が浅い」といった厳しい意見も寄せられました。

原作ファンが指摘する3つの不満点
多くの原作ファンは、映画が小説の核心的な魅力を十分に活かせていないと感じています。具体的には、以下の点が挙げられています。

- 物語の構成とテンポの欠如: 原作は、それぞれの登場人物のエピソードが巧みに絡み合い、最後に全ての伏線が鮮やかに回収される点が大きな魅力です。しかし、映画版ではこれらの伏線やエピソードが大幅に端折られ、物語がブツ切りになっているという意見が多く見られます。これにより、原作の持つ「緻密な構成」や「カタルシス」が失われ、ただ淡々と事件が進行しているように感じられた、という声が多数を占めています。
- キャラクター像の乖離: 原作小説では、登場人物たちのセリフやモノローグを通じて、彼らの哲学やユーモア、狂気が描かれています。しかし、映画版ではそのキャラクター性が浅く描かれていると指摘されています。
- 鈴木: 原作では「ヘタレ」でありながらも、どこか飄々とした面白みを持つキャラクターでしたが、映画ではその部分が薄く、ただの「ヘタレな男」にしか見えなかったという意見。
- 蝉: 映画版での「狂った笑い」や感情表現が、原作のクールなナイフ使いというイメージと異なっているという意見。
- 鯨: 「自殺屋」という特殊な能力を持つキャラクターでありながら、その描写が退屈に感じられたという意見。 また、原作ファンが想像していたキャストのイメージと、実際の演技が合わないと感じた人もいるようです。特に、セリフ回しが不自然で、「普通の人間はこんな風に話さない」といった厳しい声もありました。
- 伊坂幸太郎の世界観の欠如:原作小説の魅力は、残酷な出来事の中にもユーモラスでどこか乾いた「伊坂ワールド」と呼ばれる独特の雰囲気がある点です。しかし、映画版はサスペンスとアクションに比重を置きすぎたため、その独特の味わいが失われたと感じるファンも少なくありませんでした。
こうした賛否両論こそが、この作品が観客に多くの議論と考察の機会を与えている証拠でしょう。単なる娯楽作品としてだけでなく、人間の内面に潜む闇や社会のあり方を問いかけるテーマ性を持つ『グラスホッパー』の真価を、ぜひあなたの目で確かめてみてはいかがでしょうか。
まとめ:筆者には合わなかった作品
筆者は原作未読でしたが、原作を読んでいる人の意見を見ると、原作ファンからのブーイングが目につきましたね。理由はエピソードが大幅にカットされていたり、キャラクターのイメージが全く違ったり、「もはや違う作品だ」という声も少なくないようです。
殺し屋の目的がわりと早い段階で達成されてしまうため、ドキドキハラハラはするものの、なんだか「ひとごと」感が増大してくるのが気になりました。後半のCGに多少違和感を覚えたのは、筆者が集中力を失ってしまったからかもしれませんが、渋谷の街並みが究極のリアリティ(実はセットだと聞きました)を持っていたのに対し、悪者のアジトは究極に作り物感が満載で、そのギャップに少し肩透かしを感じました。そういえば「脳男」を観たときも同じような感想を抱いたように思います。これは監督の作風なんですね。個人的には、「合わない」監督さんになってしまいました。