劇場アニメーション「犬王」は、、能楽師・犬王に題材をとった古川日出男の2017年の小説『平家物語 犬王の巻』を原作としています。本作は、原作が描く歴史から意図的に消去された人々への深い共感を、湯浅監督が現代的な表現で蘇らせた手腕にあります。
- タイトル
- 平家物語 犬王の巻 (河出文庫) 古川 日出男
室町時代は、平家物語の中で足利政権にとって都合の悪い部分は削除され、「正本」として統一された話のみが語り継がれていました。そんな中で、犬王と友有は語られることのなかった平家一門の無念を歌として昇華させていきます。彼らの存在自体が「あったかもしれない歴史」の象徴であり、ブラックボックス化された過去への想像力を無限に膨らませる装置として機能しています。
特に印象的なのは、友有の名前の変遷です。漁師の息子として生まれた「友魚(ともな)」、琵琶法師となった「友一(ともいち)」、そして自らの意志で名乗る「友有(ともあり)」。この「ここにあり」という存在証明がテーマだと思います。
ミュージカルアニメとしての革新性─音楽と声が織りなす魂の饗宴
映画「犬王」を語る上で欠かせないのが、やはりミュージカルアニメとしての圧倒的な完成度でしょう。物語の中盤から始まる音楽シーンは、まさに度肝を抜く体験となっています。それまで琵琶の音色で進行していた物語が、突如としてエレキギターの轟音に包まれ、ロックフェスティバルさながらの熱狂に変貌します。
前代未聞のロック演出が生む熱狂
大友良英が手掛けた楽曲は、伝統的な和楽器と現代のロックサウンドを見事に融合させており、「もしも600年前にロックが存在したら」という壮大な仮定を音楽的に実現しています。友有氏はジミ・ヘンドリックスのように琵琶を背面で演奏し、犬王はマイケル・ジャクソンの『スリラー』を彷彿とさせるダンスで観客を魅了します。クイーンの「We Will Rock You」に似た手拍子が響き、ビートルズ的なハーモニーが室町の空に響く様子は、まさに「時代を超越した音楽の力」を体現した名シーンです。
音楽シーンでは、思わず手拍子を送りたくなる衝動を抑えきれなくなるほどの熱量があります。「はい上がるんだ 底までも己が語る物語 今こそ奏でろ」という歌詞とともに「我が名は犬王」と名乗るシーンは、存在証明というテーマが音楽と一体化した瞬間でした。
森山未來とAvu-chanが紡ぐ魂の歌声
映画「犬王」の革新的な音楽世界に命を吹き込んでいるのが、森山未來とQueen BeeのボーカルAvu-chanという稀有な才能です。劇中での森山未來の表現力は圧巻の一言で、失明した青年の繊細さから、琵琶法師としての語りの技術、そして最終的にロックスターとして観客を熱狂させる迫力まで、幅広い演技レンジを見事に使い分けています。彼の歌唱は時に力強く、時に哀切を帯び、友有という一人の青年の人生そのものを声だけで表現しているのです。
一方、Avu-chanが演じる犬王は、その異形の外見とは裏腹な美しく天使のような歌声で観客の心を鷲掴みにします。特に印象的なのが三つの演目です。まず「腕柄(うでがら)」では、切り捨てられた平家の武将の無念を歌い上げ、犬王自身の呪われた腕が成仏していきます。次に「鯨(くじら)」では、来ることのなかった未来への希望を100年待ち続ける平家の魂を描き、犬王の背中の鱗が剥がれ落ちていきます。そして最後の「龍宮」では、海の底にある竜宮城への憧憬と、報われる日を信じ続ける魂の叫びが響き渡ります。
これらの楽曲を歌うAvu-chanの声には、ハイトーンの美しさだけでなく、魂の底から絞り出すような切実さが宿っています。異形の姿でありながら、誰よりも純粋に芸能を愛し、報われない者たちの声を代弁する犬王というキャラクターに、完璧に命を与えているのです。
このように、大友良英の革新的な音楽設計と、森山未來とAvu-chanという二人の表現者の才能が融合することで、本作は単なるアニメーション映画を超えた、ライブパフォーマンスを体験しているかのような没入感を生み出しているのです。
サイエンスSARUが実現した実験的映像表現の集大成
アニメ「犬王」の映像面における特徴は、湯浅政明監督が共同設立した制作会社サイエンスSARUならではの、自由で実験的なアニメーション表現にあります。『DEVILMAN crybaby』『夜は短し歩けよ乙女』『ピンポン THE ANIMATION』などで培われた表現技法が、本作で見事に実を結んでいる印象でした。
松本大洋のキャラクターデザインが生む独特の世界観
『ピンポン』『鉄コン筋クリート』で知られる松本大洋のキャラクターデザインは、湯浅監督の表現世界と完璧にマッチしていました。特に友有の失明を表現した「殴り書き」のような映像表現は、『マインドゲーム』から続く湯浅監督の真骨頂とも言える技法です。
音が鳴った瞬間に現れる抽象的な映像は、見えない世界を映像で表現するという、アニメーションだからこそ可能な芸術的演出となっています。友有が音で世界を認識する様子は、油絵のような殴り書きの絵によって表現され、聴覚だけで世界を把握する彼の感覚世界を視覚的に体験させてくれます。
犬王の異形の身体が舞踏によって美しく変貌していく様子も、現実では不可能な表現をアニメーションで実現した見事な例です。呪いが解かれるたびに、長すぎた腕が正常な長さになり、背中の鱗が剥がれ落ち、足が生えてくる様子は、身体の変容を通じて魂の解放を描く、極めてアニメーション的な表現と言えるでしょう。
大胆な表現の意義
映画「犬王」は一方で、実験的すぎる表現に戸惑いを覚える視聴者もいることでしょう。特に中盤からのロック演出は、時代考証を重視する観客には受け入れ難い部分もあるでしょう。室町時代にエレキギターの音が響き、現代のロックフェスのような演出が展開されることに、違和感を覚える方も少なくありません。
また、複雑な設定や呪いの関係性が十分に説明されないまま進行するため、消化不良を感じる観客もいます。なぜ犬王が異形の姿で生まれたのか、なぜ芸を覚えるたびに人間の姿に戻るのか、といった設定は映像的には美しく描かれていますが、物語としての説明は最小限に留められています。
それは湯浅監督の過去作品と比較すると、本作は明らかに集大成的な位置にあります。『四畳半神話大系』の独特な演出、『夜は短し歩けよ乙女』のミュージカル的要素、『DEVILMAN crybaby』の社会批評性、そして『君と波にのれたら』の音楽への愛情が、すべて結実した作品と言えるでしょう。
そして時の権力者による歴史の改竄、民衆文化の弾圧、アーティストへの検閲といった問題は、まさに現代社会が抱える課題そのものです。「語り継ぐ者がいなければ、存在しなかったことになってしまう」という本作のメッセージは、情報統制や文化の均質化が進む現代において、より切実な響きを持って迫ってきます。
犬王と友有の最終的な運命は決して明るいものではありません。友有は仲間を次々と失い、最後は「友魚(ともな)」という元の名前に戻って処刑されます。犬王もまた、革新的な猿楽を封じられ、伝統的な能楽の型にはめられてしまいます。しかし、それでも彼らが生み出した音楽と物語は、600年の時を超えて現代に届いているのです。

まとめ:時代を超越した魂の叫びが響く名作
劇場アニメーション『犬王』は、アニメーション表現の可能性を押し広げた、湯浅政明監督の集大成とも言うべき作品です。歴史から消された人々への鎮魂歌でありながら、同時に現代への強烈なメッセージを込めた社会派アニメーションとしても読むことができました。
「もっと行くぞ」「変わらねえな」という劇中の言葉は、作品そのものの宣言でもあります。既存の枠組みを破壊し、新しい表現領域を切り開いていく湯浅監督の飽くなき挑戦は、まさに犬王と友有の精神そのものです。
賛否両論を呼ぶことは間違いありませんが、それでもこの作品が存在することの意義は計り知れません。日本アニメーション史に確実に名を刻む、忘れられない一作となるでしょう。