映画「NOPE/ノープ」は、表層的なUFO映画の枠を大きく超えて、映画史そのものを題材にした壮大な物語となっていました。物語の冒頭で言及される「動く馬の連続写真」は、映画の起源として知られるエドワード・マイブリッジの実験を指しており、そこに写った黒人騎手の存在が映画史から抹消されていることを告発します。

Photos made by Eadweard MuybridgeAnimation by User Waugsberg – The sequence is set to motion using these frames (Human and Animal Locomotion, plate 626, thoroughbred bay mare “Annie G.” galloping), パブリック・ドメイン, リンクによる
ピール監督は、この「名もなき者たち」への復讐として本作を位置づけています。映画産業によって搾取され、歴史から消された人々、特に有色人種や動物たちが、今度は「見る者」たちに復讐を仕掛けるという構造は実に巧妙です。UFOという存在は、単なるエイリアンではなく、一方的に「見る」ことで搾取してきた我々観客への警鐘として機能しているのです。
スピルバーグへの愛と批評のバランス
映画「NOPE/ノープ」は明らかにスティーヴン・スピルバーグ作品、特に『未知との遭遇』や『ジョーズ』へのオマージュとして作られています。しかし単なる模倣ではなく、スピルバーグ映画の特徴である「見上げるショット」を逆転させることで、独自の視点を確立しています。スピルバーグ映画では、主人公が驚異を見上げることで感動や畏怖を表現しますが、本作では「見てはいけない」「見上げてはいけない」というルールが貫かれています。この逆転の発想こそが、「見る」という行為そのものを問い直すピール監督の意図を明確に示していました。

主演のダニエル・カルーヤが演じるOJは、従来のホラー映画における黒人キャラクターの固定観念を覆す存在として描かれています。寡黙で内向的でありながら、動物への深い理解と愛情を持つ彼の人物像は、最終的にサバイバルの鍵となります。キキ・パーマー演じるエメラルドの成長物語も見事です。当初は功名心に駆られた軽薄なキャラクターとして描かれますが、物語が進むにつれて家族愛と責任感を持つ強い女性へと変化していきます。特に兄妹が互いを見つめ合うクライマックスのシーンは、涙なしには見られない感動的な瞬間です。
ジョーダン・ピール自身が『ゲット・アウト』で切り拓いた社会派ホラーの系譜を、さらに大きなスケールで発展させた作品として位置づけられるのではないでしょうか。
映像美と技術面における革新性
撮影を担当したホイテ・ヴァン・ホイテマの手腕は、本作の大きな見どころです。『インターステラー』『ダンケルク』で培われた65mm IMAX撮影技術により、広大なカリフォルニアの空と大地が息を呑むような美しさで描かれています。特に空の使い方が秀逸で、視聴者は常に「何か」がそこに潜んでいるのではないかという緊張感を味わいます。これは『ジョーズ』の海の使い方と同様の効果を狙ったものです。大画面のテレビやホームシアターで視聴すれば、その圧倒的なスケール感を十分に堪能できるでしょう。

また本作の技術的な革新性も見逃せません。UFOの存在を「撮影する」という行為そのものを物語の中核に据えることで、映画の撮影技術と物語が有機的に結びついています。特に、デジタル撮影が主流の現代において、あえてフィルム撮影にこだわる姿勢は、映画というメディアへの深い愛情を感じさせます。劇中で使用される古典的なクランク式カメラが最終的に勝利を収めるという展開は、映画史への敬意と現代技術への問いかけを同時に表現した見事な演出です。デジタルメディアが溢れる現代において、アナログな記録方法の価値を再認識させられる場面でもあります。
現代社会への問いかけと作品の課題
本作が2020年のコロナ禍で構想されたという背景も、物語に深みを与えています。ロックダウンによって「見世物」そのものが消失した時代に、改めて「本当に見るべきもの」は何かを問いかけるメッセージが込められています。SNSやTikTokが普及し、あらゆるものがコンテンツ化される現代において、本作の「見ることの暴力性」への批判は極めて現代的です。同時に、そうした批判をスペクタクル映画として成立させるピール監督の手腕は見事というほかありません。
一方で、2時間という上映時間に対して登場キャラクターが多く、それぞれの深掘りが不足している感は否めません。特にアンヘル(ブランドン・ペレア)の魅力的なキャラクター性を考えると、もう少し彼の背景を知りたかったところです。また、ホラー映画としての恐怖演出は、ピール監督の前2作と比較するとやや控えめに感じられます。ただし、これは意図的な選択であり、より多くの視聴者にアプローチしようとするピール監督の戦略的判断と理解できます。家庭での視聴を前提とすれば、過度な恐怖演出を抑えたことは正解だったかもしれません。
まとめ:「見ること」の意味を問い直す現代の傑作
映画『NOPE/ノープ』は、ジョーダン・ピール監督がこれまでの社会派ホラーの枠を超えて到達した、新たな境地を示す作品です。表面的には娯楽性に富んだスペクタクル映画でありながら、その奥底には映画史への深い洞察と現代社会への鋭い批評が込められているようでした。
「見る」ことの暴力性を告発しつつ、同時に「見る」ことの美しさも肯定する、この複雑で矛盾した構造こそが本作の真の魅力です。映画を見る我々観客もまた、作品の共犯者であり被害者でもあるという入れ子構造は、観賞後も長く心に残る深い余韻を与えてくれました。