DCヒーロー映画『ザ・フラッシュ』は長らく遅延したいわくつきの映画です。その製作過程は決して平坦ではなく、監督交代による方向性の迷い、主演エズラ・ミラーのスケジュール調整困難(『ファンタスティック・ビースト』シリーズとの兼ね合い)、さらには新型コロナウイルス感染症の影響による撮影中断、そして何より主演俳優の度重なる法的トラブルなど、数々の困難に見舞われました。

それでも製作費2億ドルを投じて完成に至った本作は、DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)の事実上の集大成として位置づけられ、同時に新たなDCユニバースへの橋渡し役を担う重要な作品となっています。
監督を務めるのは『IT/イット』二部作で若者の成長を巧みに描いたアンディ・ムスキエティ。彼が手がける本作は、DCコミックの名作「フラッシュポイント」を原作としながらも、映画独自の解釈を加えた意欲的な作品となっています。
そして最大の話題は、1992年の『バットマン リターンズ』以来、実に30年ぶりにマイケル・キートンがダークナイトのマントを羽織ること。この奇跡的な復帰は、単なるファンサービスを超えて、物語の核心に深く関わる重要な要素として機能しています。

時間改変が生む複層的ドラマ
映画『ザ・フラッシュ』の物語の骨格は非常に明快です。警察の科学捜査官バリー・アレン(エズラ・ミラー)は、母親殺害の冤罪で収監された父親を救うため、自らの超能力を使って過去に遡ります。しかし時間改変は予期せぬ結果を招き、彼は別の時間軸の世界へと迷い込んでしまいます。
この設定により、物語は三層構造を形成します。第一層は冒頭のアクションシーケンスで描かれるヒーロー活劇です。それはベン・アフレック版バットマンとのタッグによる赤ちゃん救出シーンは、フラッシュの能力を最大限に活かした映画史に残る名場面です。
第二層は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を彷彿とさせるSFコメディ。エズラ・ミラーが演じる二人のバリーの掛け合いは絶妙で、特に陽キャに成長した別世界のバリーとのコントラストが物語に軽妙さをもたらします。
そして第三層が、ゾッド将軍の地球侵攻という壮大なクライマックス。ここでマイケル・キートン版バットマンとサーシャ・カル演じるスーパーガールが合流し、運命的な最終決戦が展開されます。
懐かしさと革新性の融合
ムスキエティ監督の演出は、90年代的な親しみやすさと現代的な映像技術を見事に融合させていました。特に印象的なのは、フラッシュの高速移動を表現した独特な映像表現です。時間が歪む瞬間の視覚的表現は、従来のスーパーヒーロー映画では見られない斬新なアプローチでした。
他のスピードヒーローとの表現の違い
- クイックシルバー(X-MEN): 高速移動中の世界をスローモーション化し、音楽と共にコミカルに描写
- クイックシルバー(アベンジャーズ): 残像や風の表現で速度を表現するが、比較的控えめな演出
- A-Train(ザ・ボーイズ): 血生臭いリアリズムを重視し、高速衝突の破壊力を強調
- フラッシュ(本作): 時空間の歪みそのものを視覚化し、スピードフォースという異次元エネルギーの神秘性を表現
このように本作のフラッシュは、単なる「早く動く」だけでなく、時間と空間に干渉する存在として描かれており、これが他作品との大きな違いとなっています。
ただし、CGに関しては完成度にばらつきが見られます。赤ちゃん救出シーンの一部や、フラッシュの顔が変形する瞬間など、明らかに未完成と感じられる箇所も散見されました。これは製作期間の制約によるものと推察されますが、2億ドルの製作費を考えると、もう少し完成度を高めてほしかったというのが正直な感想ですね。
成長と贖罪の軌跡
エズラ・ミラーの演技は本作の最大の収穫でしょう。一人二役という困難な役柄を、性格の違いまで明確に演じ分けています。特に終盤で見せる感情表現は圧巻で、母親を救えない現実を受け入れる場面では思わず涙が頬を伝います。
またマイケル・キートンの復帰は、単なるノスタルジー以上の意味を持ちます。71歳という年齢を重ねた彼のブルース・ウェインは、疲れ切った老戦士の哀愁を漂わせながらも、いざという時の凛々しさは健在。「I’m Batman.」という名台詞を再び聞けた時の感動は格別でした。
サーシャ・カル演じるスーパーガールも印象的です。長年監禁されていた設定により、人との交流に慣れていない彼女の演技は説得力があり、アクションシーンでの力強さとのギャップが魅力的でした。
ノスタルジーと成長が紡ぐ物語
映画「ザ・フラッシュ」は娯楽映画として非常に優秀でありながら、深いテーマ性も内包しているといって良いでしょう。「過去を変えたい」という欲求と、「現実を受け入れる」ことの重要性を、SFアクションという枠組みで巧妙に描き出しています。
特に秀逸なのは、バリーの成長が段階的に描かれていることです。序盤の幼い正義感から、中盤の混乱と後悔、そして終盤の成熟した判断力への変化は、まさに一人の青年が大人になる過程そのものでした。この成長譚は、クライマックスのマルチバース崩壊シーンでさらに深みを増します。
そして本作を語る上で欠かせないのがクライマックスのマルチバース描写は、DC映画史への愛に満ちたオマージュ集となっています。クリストファー・リーヴ版スーパーマンとヘレン・スレイター版スーパーガールの夢の共演、そして最も衝撃的だったのは、製作中止となった『スーパーマン・リブズ』のニコラス・ケイジ版スーパーマンの登場でした。

これらの映像は単なるファンサービスではなく、「実現しなかった可能性への哀惜」というテーマと深く結びついています。バリーが母親との時間を諦める痛みと、視聴者が見ることのできなかった映画への思いが重なり合い、複層的な感動を生み出しています。
一方で、DCユニバースの集大成としての役割も果たしており、これまでのシリーズファンへの配慮も見事です。ベン・アフレック版バットマンの勇姿、そして最後に登場するジョージ・クルーニー版ブルース・ウェインのサプライズは、新旧ファンの架け橋となる演出でした。過去への憧憬と未来への希望、失われたものへの哀惜と新たな可能性への期待が、この一作の中で美しく調和しているのです。
まとめ:時代の終わりと始まりを告げる叙事詩
映画『ザ・フラッシュ』は、正直CGの粗さ、一部キャラクターの描写不足、そして複雑すぎる設定など、課題も多く抱えている作品でした。
しかしながら大作アクション映画でありながら、人間ドラマの核心を見失っていないことです。バリーが最終的に下す「母親を救わない」という決断は、きっと視聴者の心に深い余韻を残します。愛する人を失う痛みを受け入れることでしか得られない成長があるという、普遍的なテーマが垣間見えました。
DCユニバースの一つの終焉を告げる本作は、同時に新たな可能性への扉でもあります。実際に、本作の公開と前後して、ジェームズ・ガン監督とピーター・サフラン氏がDCスタジオの共同CEOに就任し、全く新しいDCユニバースの構築が発表されました。新生DCではデヴィッド・コレンスウェットによる『スーパーマン』を皮切りに、より統一されたヴィジョンのもとで展開される予定です。
時間は戻せないけれど、未来は変えられる。バリー・アレンの物語が教えてくれるのは、そんな希望に満ちたメッセージなのかもしれません。そしてそれは、DCユニバース自体が歩もうとしている道でもあるのです。
マイケル・キートンのバットマンが再び「I’m Batman.」と告げるとき、きっと多くの視聴者が30年という時の重みと、変わらぬヒーローへの憧憬を同時に感じたはずです。それこそが、本作が達成した最大の功績なのです。